代償または犠牲
先日も柳田邦男氏の何かのインタビューで お姿を拝見したが その受け答えの内容より お年を召されたなぁ・・という感慨があった。私も歳を取った。だいぶ前に 柳田氏の『犠牲-わが息子・脳死の11日』書評 リンクという本を読んでいる次男さんが 心の病を抱えていて その深いところまで理解できないまま次男さんは自死し 生前希望していたと知る臓器提供を 父として進めるまでのことが書かれていたと思うこの「犠牲」というのは どういうことを指しているのかという読解力がなかったのか 理解したが記憶がおぼつかなくなったのか 今はこの書に関しては書けないが・・・勝手に 近頃の親子の事件で思うのだけれど虐待などは もってのほかであるけれど その他にも離婚や 宗教や 貧困や 家庭内暴力や 進学や 就職 進路 生きていく道への干渉など親自身さえ どうにも苦しい中で必死で乗り越えていく毎日であったりまたは 良かれと思って 子供を導く ということがあるやはり人の人生は その人の人生であり 親であっても障壁になったり 勝手な希望で動かしてはならないと思っているという我が家の息子も 少し心が繊細で揺れ動きやすい元々の気質 器質 を持っていたからなおさらなのだと思うが今 振り返れば 自由に思うように生きてごらん?と言いながらも学歴社会や良い子でいることへの 刷り込みをしていた気がするこうなりなさいなどと 言った自覚は無いのだけれどきっと親が思うよりも強烈に 親を超えたい 立派になりたいという思いがあったかと思う何年も 振り返り 考え より良くと 毎日思って過ごしてきたがやはり 親だって子育てのプロではないのだけれど 大切な要所で彼らに寄り添えていなかったと 思うのだ悪い方へ誘導したかもというよりも良い方へ向かう道の邪魔をした というべきかやはりそれは 親として間違えた 失敗だった彼らが負ってしまった 苦しさの代償は彼らが未来を失うとか 自己責任として負うとかではなく私と夫 親が老い先短い人生をもって 代償したいと思っている。それは 何年もの親子の葛藤よりも 本当は ずっと穏やかで幸せなことだった。これが代償になっているのだろうか と思うほど私たち自身の心が 軽く自然に生きられるということだった。私たちは 何に心を囚われていたのかと思う。