現象は記述できない
(構造主義科学論の冒険:p71:池田清彦(著):講談社学術文庫)より引用『現象というのは決して記述することはできませんが、科学はあたかもそれが記述できるかのように思いなす壮大な錯覚体系なのです。この錯覚体系を共有している人々にとってのみ、現象はコトバによって了解可能なものになるのです。 誤解のないように言いそえれば、だから科学はインチキだなどと言っているわけでは決してありません。』 錯覚だからといってインチキなわけではない。インチキと見なす判断もまた、錯覚なのだから。 言語化が錯覚化だとしても、錯覚化でない言語化はないのだから、思考するからには、どの錯覚体系に基づいて思考するか、である。 ああ、でも、現象というのは記述できないけれども、感じている。ぼくはいま、記述するという、文字を打ちこむという現象を感じている…そしてそれはコトバではない…