水液の時刻
水液の時刻プールサイドに風が吹いて、インク壷が倒れる。インク壷には、きわめて繊細な幾何学図形の描かれたインク壷の絵が、二百個描かれているはずだ。片目を閉じ何度も数え直すが、合計はけっして同じ数字にはならない。多いときには、千を越えても数え切ることはない。倒れたインク壷は、虹色に輝く。虹や虹色について質問する機会はすでに失われた。もうとっくに虹は消え去り、輝きは終わっている。虹を眺めていた場所には、虹とは少しも似ていないもの、虹が運んできたかもしれないもの、黒い霧が漂う。黒い霧の正体を調べるため、黒い霧を一粒だけ取り出し、爪で裂け目を入れ、裏返してみる。わずかなきらめきが放たれる。黒い霧は、巧妙に裏返しにされた光の粒でできている。プールの水は激しく揺れている。水に触れながら書きたい。色つきインクのかわりに、濃く熱い水で書こう。プールに溜まった水でなく、沸騰した雨水で書こう。プールサイドに敷き詰められた白いカーペットに寝転び、カーペットに直接書きこんでいく。充分に訓練された手で強く線を引けば、失敗することはない。黒い霧を熱湯に混ぜ、掻き回し、静寂を待つ。インク壷を倒れたままにしておいたが、まだインクは残っている。はやく使い切って、美しい雨のなかで泳ぎたい。さあ、雨粒を数えよう。一粒、一粒、ゆっくりと、正確に、そして一気に。今度こそ、数え間違えてはいけない。目を閉じ、偏位しつつ落ちてくる雨粒の音を、聞き分けるのだ。雨粒は予想外に大きく、インク瓶とペンの振動は突然、止まる。指を曲げようとして、体の振動まで止まりそうになる。血液の流れは遅くなり、やがて逆向きに流れ出す。右と左が交わる。そして、左右の力は同等となり、何事も起こらなかったかのように、ふいにすべては止まる…