村上春樹さんの新作と「知覚の変化」
『色彩を持たない 多崎つくると、 彼の巡礼の年』をちょっとずつ読んでいたのですが、少しずつぼんやり読んでいたのですが、89ページにきて、目が覚めた。『知覚そのものを拡大できる… … 霧が晴れたみたく、すべてがクリアになる。 … 知覚というのはそれ自体で完結するものであり、それが何か具体的な成果となって外に現れるわけじゃない。御利益みたいなものもない。それがどんなものだか、口で説明するのは不可能だ。自分で実際に経験してみるしかない。 … いったんそういう真実の情景を目にすると、これまで自分が生きてきた世界がおそろしく平べったく見えてしまう…』(p89/p90)より引用おお、「知覚の変化」じゃないか。村上さんは、たとえば以下のような体験を元に書いているのかも…(ランナーズ・ハイの状態と思われます)『僕は僕であって、そして僕ではない。そんな気がした。それはとても物静かな、しんとした心持ちだった。意識なんてそんなにたいしたものではないのだ。そう思った。もちろん僕は小説家だから、仕事をするうえで意識というのはずいぶん重要な存在になってくる。意識のないところに主体的な物語は生まれない。それでも、そう感じないわけにはいかなかった。意識なんてとくにたいしたものでもないんだと。』(走ることについて語るときに僕の語ること:村上春樹(著):p156/p157:文藝春秋)より引用でも、村上さんはランナーズ・ハイの状態における「知覚の変化」とはいくぶん別のことをこの新作のこのあたりでは書こうとしているようでもあります。『色彩を持たない 多崎つくると、 彼の巡礼の年』にもどります。『「たとえ死と引き替えであっても…体験する価値のあることだと、緑川さんは思いますか」 緑川は肯いた。「もちろんだ。それだけの価値はじゅうぶんにある…」』(p90)「死と引き替え」だなんて、なんだか神秘めかしていますが、じつのところ、「身体の死と引き替え」なのではなく、「言葉の世界における、言葉の死と引き替え」なのですが、ああそうか、小説は言葉でできているから言葉が死ねないのか…『いくら薄っぺらで平板であっても、この人生には生きるだけの価値がある。 … 論理の糸を使って、その「生きるだけの価値」なるものを、自分の身になるたけうまく縫い付けていくんだな』(p94)薄っぺらで平板な「生きるだけの価値」って何なんだ?