レフ
緊張しながら彼女の携帯に電話をかける。「I meet you. I miss you. Please, Please, I meet you.」なるべく必死な声で挨拶のふた言目に会いたいとささやく。しかも片言の英語だ。カナダのケベック州、つまりフランス系のコを食事に誘った。「わかったわ。19時にアマンド前でね。楽しみにしてるわ。」六本木で遊び始めて数ヶ月、少しだけの英語を覚え、それを聴く耳も育った。彼女とは広告のイメージ撮影で知り合った。俺はカメラマン見習いでレフ板持ち。彼女はモデル。黒髪で肌が白くてお人形さんみたいな女の子だ。夜遊びが過ぎて、クマを作ってきたが、彼女の顔色を隠すために一生懸命、光を当てた。彼女の一番近くで仕事をしていたのが俺なのだ。歳も近いこともあって、いろいろと話すようになっていた。友達以上にはなれないなと諦めていたが、奮起して食事に誘ったのだ。意外に簡単に約束できた。服装に少し悩んだが、いつも通りにジーンズにTシャツ。念のため、ジャケットを羽織って、待ち合わせ場所へ急いだ。割と見慣れた交差点の一角にアマンドはある。とりあえず、ガードレールに腰掛けて、ラッキーを一本吸う。交差点にはいろんな人間がいる。絶対にカップルではない組み合わせの男女、ビデオカメラを回す中国人、デートの待ち合わせで妙にそわそわした人、ナンパしている野郎、スカウト。その中に溶け込んで、ゆったりしていると、周りの野郎の視線が一方向を向いた。顔だけそちらに向けるとペニーがこちらにまっすぐ歩いてくる。軽く手を挙げて合図を送ると手を振ってきた。周りで舌打ちする音が響いた気がする。気分は悪くない。「ごめん、洋服選ぶのに時間がかかっちゃって。」5分遅れて来た。常習犯。でも5分きっちり遅れてくる。撮影のときは、クライアントに迷惑がかかるからいつも注意されているのだけど、ペニーは気にしない。「構わないよ。ところで、何食べる?」「えーと、とりあえずお茶しましょう。急いできたから喉が渇いたわ。」手を引かれてスタバに向かう。ここのスタバは、日本人がほとんどいない。煙草が吸えないので少々困ったが、俺の手を引いて、手際よくコーヒーを持って席につく。いつも仕事場では、手を焼くコなのだが、案外、世話を焼くのが好きなのかもしれない。「ねえ、トシって独裁者みたいな男よね。私、嫌い。」トシと言っている人物は、俺の上司、つまりカメラマンだ。確かに人当たりは苛烈だ。何度怒鳴られて、モノをぶつけられたかわからない。「でも、彼の実力は確かだから。」どうやらいろいろと愚痴があるらしい。道理であっさりと食事の約束を受けてくれたわけだ。片言の英語と日本語、片言の日本語と英語のぎこちない会話。こちらも身振り手振りを交えて、どんどんヒートアップしていく。「ねえペニー、お腹空いてない?」驚いた顔をして、外人特有のオーバーアクションをしながらこう答えた。「ペコペコよ。お酒も飲みたいわ。」「じゃあ、次に行こう。おいしいところ知ってる?」「ええ、私にまかせておいて。」スタバを出て、大通りから路地に入った静かな道を歩いていった。妙に積極的なペニーに少々驚きながら、いつもの子供っぽさがまったくないことに気付く。どうせピザかベースボールカフェかなんかかと思ったが、インド料理だった。「あなたは、カレー好き?」「うん、大好き!」本当に好きなので、ガキっぽく答えてしまった。二種類のカレーをタンドリーチキンを頼んで、お互いに分け合って食べた。愚痴ではなく、お互いの夢を語り合った。くるくると変わるペニーの表情が愛しかった。「ふぅ、お腹いっぱい!」伝票を摘み上げて、ペニーはレジに向かった。今晩は何が何でも彼女がホストらしい。支払いを済ませて、通りに出ると、ペニーが俯いていた。「どうしたの?」背中をさすりながら囁くとなんでもないと答える。ブルガリの香りがする。「帰るかい?駅まで送るよ。」と言い終わる前に、唇が塞がれていた。ペニーとの初めてのキスは、さっき食べたカレーの味と仄かな苦味が混じっていた。「どこかのバーで落ち着くかい?」ペニーは首を振る。「じゃあ、帰る?」ペニーは首を振る。「じゃあ、」と次の言葉を続けずに、タクシーを拾った。この甘い夜の1ヵ月後、ペニーはカナダに帰った。