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カテゴリ:瑠璃光記
年配の方に、まぶしそうに見られていたことを覚えています。 夢を語り、不安もありながら、同時に自分の未来に何の心配もなく、やろうと思ったことはすべてやってしまおうと思っていた時を覚えています。 臆面も無く、あれもこれも思いつくままに、自分の身心が許す限りに行動しようと。 死ぬのなんかこわくありませんでした。と言うよりも、仕事が終わらないと人は死なないと信じていたので、死んだらそれはそれと腹をくくっていたのでした。 今、一息ついています。 まぶしそうに見られていた自分が、若い方をまぶしく感じられる時期に入りました。 「おおっ・・・がんばれよぉ。応援してるからね」と。 同時に自分が何かをあきらめたかと言うと、実はそうでもなく、質が、次元が、今、大きく変わっていくことを感じています。 好きなことを好きなだけやってきてまったく悔いはなく、いろいろと反省はてんこ盛りだけど、今人生が終わってもさらりと笑って手が振れそうな気がしています。 たくさんの人と交流し、楽しさもあり泣きもあり、失礼したこともされたこともあったりで、笑っています。 過程ながら、途上ながら、心が鎮まって来ました。 おそらくは、根を張る時期に入りました。 シュタイナーが、年齢はある「器官」であり、ある年にならないと開かない身体器官があると言っていて、確かに、今自分が感じている感覚は、20代の自分には理解できないのがはっきりわかります。 経験という栄養素なのか、年輪なのか。 負うものは若い頃よりも沢山あるけれど、それはそれとして入れておけるキャパが出来たのか、空間のような、袋のようなもの。 そうは言いながら道の途中。 ふと振り返りながら、果ても無い道をもう一度仰ぎ見ながら、でも今ここにある自分につながるあたたかい空気や太陽の日差し、芽生える花々に鳥のさえずり人の声、友人知人家族同僚縁のある人々・・・きっとそういうものたちとゆったりとつきあう時間も、まちがいなく生まれてきた意味のひとつとわかります。 私にひとつ、すべての人々にひとつづつ、天から与えられた使命も、尊いものであり、同時に今ここで感じる幸せすべても、かけがえのない宝物。 ならば、今起きていることを、全身全霊で味わいつくそうと思うのです。 自分の使命の過程に、確かにいることは感じられていて、それらは、これから「進化」と同時に「深化」を求めているように感じます。いずれそれが「真価」となって「芯化」していくのでしょう、きっと。 更年期の心の大きな変化が、こういう着地点を生むとは思いもかけませんでした。 今日は、新月。 新しい世界へのはじまりの日となったことに、感謝です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013年02月10日 18時32分24秒
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