W杯に想う
8年前、カズが残したモノはどこへ行ってしまったのだろうか。 システム、采配、チーム作り…不満を挙げたらキリが無い。 けれども、それ以上に怒りを覚えたものがある。 勝利への執念が感じられなかったことだ。 もちろん選手は勝利を目指して戦っている。監督とて同じことだ。 しかし、戦う気持ちが伝わってこなかった。 単なる「精神論」を言っているのではない。 W杯の舞台で日の丸を背負い、青のユニフォームを着ることを許された選手たち。 彼らはその意味をどれ程理解しているのだろうか。 精神論を最も嫌う男、中田英寿は言った。 「気持ちが足りない」と。 勝利への強い気持ちが一歩の出足を速め、球際の強さを生む。 そうしたディティールの積み重ねこそがチームに勢いをもたらし、 試合を決めるプレーに繋がるのだと信じている。 ファウルを犯して止めるのも、1点の重みを知るが故なのだ。 サッカーには汚いプレーが存在する。 「泥臭さ」と一括りに出来ないプレーも往々にしてある。 けれども、それがサッカーなのだ。 8年前、フランス大会目前にして代表から外れた三浦和良は、 日本チームに魂を置いてきたと言った。 そして残されたメンバーも死力を尽くして戦った。 足を骨折しながらボールを追った中山に、幾度となくサイドを駆け上がった相馬の姿に、多くの国民は感動を覚えたはずだ。 すべてを出し尽くして戦った結果の三敗だった。 今大会はどうだっただろうか。 多くのファンは日本代表に拍手を送るのかも知れない。 感動に涙したと言うのかも知れない。 しかし、一つになれない代表にどうして感動を覚えられるだろう。 「スタメン組」と「控え組」の間にある齟齬は、最後まで埋まらなかった。 4年という歳月をかけて作り上げた夢は、 「戦う集団」と「一つの集団」そのどちらにもにもなれなかった。 予選敗退から数日。 世間では早くも次期監督の話題で盛り上がっている。 W杯を想うという事は予選敗退の問題を検証し、次へと繋げることである。 次期監督を論じるよりも、「気持ち」が見えなかった日本を論じる方が先ではないのか。 清算もせずに指揮官だけ変えたところで、 日本の根本は何も変わらない。 戦う集団にならなければ、誰が監督をしても同じなのだから。 今回の敗戦で選手たちが目を覚ましてくれることを、 そして戦う集団へと変貌してくれることを、心から望むばかりである。 (独り言なので聞き流してください)要はサッカー馬鹿なんです…→