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会津藩三田屋敷でおきた毒膳事件は、
各方面に深刻な影響をもたらした。 媛姫の嫁入り先である米沢藩上杉家は、 媛姫の死去によって、 藩主の甥を養子に迎えることになつた。 実父は、吉良上野介である。 米沢上杉家が、 忠臣蔵で吉良家の側につかざるを得なかった、 そもそもの原因は、ここにある。 連日連夜、酒好き、鷹嫌いの伊達綱宗に、 頭を悩ませる伊達家の重臣たちが、想いあまって、 将軍後見保科正之と徳川御三家水戸光圀に、 相談を持ちかけようとしたのは、 鷹場でのつながりがあるたからである。 酒井雅楽頭忠清が、 それを、こころよく思わないのは、 徳川四天王の一人でありながら、 いまだに、鷹狩の許可も、鷹場の拝領もなかったためで、 災害復興資金の一件で、 保科正之と対立したため、溝がいっそう深まった。 戦後、女と靴下は、なんとやらで、 三河物語がしめすように、 命がけで戦場を駆け回った譜代家臣団の不平不満は、 根が深い。 そこに起きた、会津藩側室闘争である。 七月二十六日、 仙台藩重臣十四名連著の嘆願書が幕府に提出され、 遊興を理由に、伊達綱宗の隠居が申し渡された。 八月二十五日 酒井雅楽頭忠清の屋敷において、 仙台藩重臣片倉小十郎景長、大條宗頼、茂庭定元らに対して、 二歳の伊達綱村への藩主相続と、 伊達宗勝、田村宗良への後見人指名が行われた。 十二月二十四日 原田甲斐が酒井雅楽頭忠清邸に、 綱村藩主相続御礼の銀五百枚、太刀、綿などを献上する。 綱村の乳母は 旧会津藩主芦名氏の姫で、 旧白河藩主白河義実の未亡人、政岡である。 綱村の養育係は、忠次郎がつとめた。 幼君を奉じて、万全の体制。 将軍後見保科正之の合議制政治に歩調をあわせて、 仙台藩後見人政治がスタートした。 和賀一族の母をもつ、 伊達宗勝の、久喜御鷹場への思いいれは強い。 一冬延期となった久喜鷹場の鷹狩再開だが、 胆沢鷹場に待機する伊達家の鷹匠たちは、鷹の訓練をかかさない。 久喜鷹場の安堵、久喜御鷹場での鷹狩の停止、 しかし、伊達家の鷹狩が禁止されたわけではない。 坂上田村麻呂の時代から長い歴史を持つ、 奥羽の武将の鷹狩である。 翌年十月、鷹狩シーズンを目前に、 酒井雅楽頭忠清から、太田資宗を通じて、 文書による通達があった。 伊達宗勝、田村宗良、二人の後見人に届いたのは、 藩主幼少を理由とした、 久喜御鷹場没収の通達だった。 前後、十年に及ぶ・・、「伊達騒動」の幕が開いた・・。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008年12月23日 23時03分58秒
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