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歴女の館 夢うさぎ塾・三館

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2008年12月23日
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会津藩三田屋敷でおきた毒膳事件は、
各方面に深刻な影響をもたらした。

媛姫の嫁入り先である米沢藩上杉家は、
媛姫の死去によって、
藩主の甥を養子に迎えることになつた。
実父は、吉良上野介である。

米沢上杉家が、
忠臣蔵で吉良家の側につかざるを得なかった、
そもそもの原因は、ここにある。

連日連夜、酒好き、鷹嫌いの伊達綱宗に、
頭を悩ませる伊達家の重臣たちが、想いあまって、
将軍後見保科正之と徳川御三家水戸光圀に、
相談を持ちかけようとしたのは、
鷹場でのつながりがあるたからである。

酒井雅楽頭忠清が、
それを、こころよく思わないのは、
徳川四天王の一人でありながら、
いまだに、鷹狩の許可も、鷹場の拝領もなかったためで、
災害復興資金の一件で、
保科正之と対立したため、溝がいっそう深まった。

戦後、女と靴下は、なんとやらで、
三河物語がしめすように、
命がけで戦場を駆け回った譜代家臣団の不平不満は、
根が深い。

そこに起きた、会津藩側室闘争である。

七月二十六日、

仙台藩重臣十四名連著の嘆願書が幕府に提出され、
遊興を理由に、伊達綱宗の隠居が申し渡された。

八月二十五日

酒井雅楽頭忠清の屋敷において、
仙台藩重臣片倉小十郎景長、大條宗頼、茂庭定元らに対して、
二歳の伊達綱村への藩主相続と、
伊達宗勝、田村宗良への後見人指名が行われた。

十二月二十四日

原田甲斐が酒井雅楽頭忠清邸に、
綱村藩主相続御礼の銀五百枚、太刀、綿などを献上する。
綱村の乳母は
旧会津藩主芦名氏の姫で、
旧白河藩主白河義実の未亡人、政岡である。

綱村の養育係は、忠次郎がつとめた。

幼君を奉じて、万全の体制。

将軍後見保科正之の合議制政治に歩調をあわせて、
仙台藩後見人政治がスタートした。

和賀一族の母をもつ、
伊達宗勝の、久喜御鷹場への思いいれは強い。

一冬延期となった久喜鷹場の鷹狩再開だが、
胆沢鷹場に待機する伊達家の鷹匠たちは、鷹の訓練をかかさない。

久喜鷹場の安堵、久喜御鷹場での鷹狩の停止、
しかし、伊達家の鷹狩が禁止されたわけではない。

坂上田村麻呂の時代から長い歴史を持つ、
奥羽の武将の鷹狩である。



翌年十月、鷹狩シーズンを目前に、
酒井雅楽頭忠清から、太田資宗を通じて、
文書による通達があった。

伊達宗勝、田村宗良、二人の後見人に届いたのは、
藩主幼少を理由とした、
久喜御鷹場没収の通達だった。

前後、十年に及ぶ・・、「伊達騒動」の幕が開いた・・。





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最終更新日  2008年12月23日 23時03分58秒



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