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歴女の館 夢うさぎ塾・三館

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2008年12月24日
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後見人の田村宗良は、岩沼三万石を領知した。
田村家は、征夷大将軍坂上田村麻呂の末裔で三春城主、
秀吉の奥州仕置きで領地を没収された。

伊達政宗の正室愛姫が、
生家の田村家を再興するよう遺言したので、
孫にあたる忠宗の子宗良が田村家を継いだ。

後見人伊達宗勝は、
伊達政宗の末子である。
母は、和賀一族の只野勝女姫である。
和賀一族の地である一関三万石を領知した。

三田屋敷毒膳事件で、痛手をうけ、
酒井雅楽頭による専横政治の勢力拡大を許した保科正之だが、
水戸藩主水戸光圀とともに殉死禁止法を実施し、
家光派閣僚による合議制政治の確立につとめた。

老中連署の制度を定め、
山崎闇斎を招き、戦後の文治政治を強化した。

心労が重なり、
殉死禁止法制定の時に倒れた保科正之に、
将軍家綱から鷹二羽が病気見舞いとして届けられた。
奥羽産の、立派な鷹である。

鷹場のある胆沢の飯坂家に、
原田甲斐の息子仲次郎が養子に入り、
飯坂仲次郎を名乗った。
飯坂家は、
宇和島藩主伊達秀宗の
母の実家である。
久喜鷹場を没収したものの、
将軍後見保科正之と対立する酒井雅楽頭には、
鷹場拝領も、鷹狩の許可も思うにまかせない。

藩主幼少のために鷹場没収となったのなら、
藩主が成人したあかつきには、鷹場は返還になるのか、
という期待をもった伊達家重臣たちの、
視線がある。

鷹場返還を餌に、ねちねちと、
ジワジワと、甘い汁を吸う。
その一方で、没収した久喜鷹場を、
旗本譜代に分け与え、
専横政治の根回しをおこなう。

どうしようかな、
返すとも、返さないとも言わぬ、
あー、うー、
政治家と屏風は、まっすくでは立たぬ

なんてことで、酒井雅楽頭は大老になった。

幽閉中の藤木万に対して、
酒井雅楽頭忠清が裏工作をして、
藤木万が生んだ嗣子正経を、
手中に納めようと
正経つき家老の成瀬重次を
懐柔しはじめた頃、

保科正之の側室、
沖氏が
男子を生んだ。
それから、
わずか、四ヶ月後、
失明した保科正之は
隠居願いを出した。

若殿誕生による息子正経の
廃嫡を危惧した藤木万が、
毒を盛ったという噂が流れた。

五月十日 
保科正之と正経父子が、
江戸城に登城した。
将軍徳川家綱は、隠居願いを受理した。

保科正之は、家綱に、
「隠居すればかえって、目が見えるような気がします」
と言った。

将軍家綱は笑ったが・・、
かたわらの酒井雅楽頭は、
痛烈な皮肉に、
顔をしかめた。

成瀬重次は、才気煥発
若年にして家老にまで出世した人物である。

松姫の加賀前田家への輿入れの際は
婚礼仕度の任務にあたって江戸に入った。
しかし、
毒膳事件で保科政治が揺らぐと見た成瀬重次は、
見切り千両に
いちはやく
保科政治の崩壊を願う
酒井雅楽頭の誘いにのった。

五月十二日 
家督相続御礼のため登城した
正経に同行した成瀬重次は、
大老酒井雅楽頭に、
野心まんまんの視線をあわせ、
家光派老中の、冷たい視線を浴びた。

小田原城主の
老中稲葉正則は、
春日局の、孫である。

十月 
将軍家綱は、
鷹狩の鶴を保科正之に贈った。
隠居後、はじめての鶴拝領である。

保科正之と沖氏との間に生まれた正容が、
まもなく一歳の誕生日を迎えるという、
十二月九日

忠次郎を烏帽子親として、
伊達綱村の元服式が、執り行われた。

隠居後の保科正之が、
以前よりも多角的に幕政を監視できるようになり、
老中稲葉正則らを率いて、
大老酒井雅楽頭の専横政治の暴走に
クサビを打つだろうという予測によって。

久喜鷹場没収以来の酒井雅楽頭への饗応は、
膨大な借金を作った。
返還を期待して久喜鷹場領域に注ぐ労力と金。

伊達綱村を元服させ、
藩主成人による久喜鷹場返還を実現させようとする
必死の思いである。

伊達綱村元服の半年前、
藤木万は、
息子正経の藩主就任で幽閉を解かれ、
正経は、
会津へ
初の国入りを果たした。

鷹匠らが国境まで、
行列を迎えた。

正経付き家老の成瀬重次は、
昔の同僚である国家老たちを見下すように
会津城に入った。

西の丸の女たちは、
昔は、
松姫の婚礼行列について江戸入りした成瀬が、
今は、
藤木一派について国入りかと、
嫌悪感をあらわにした。

息子が藩主となって、
幽閉を解かれた藤木万が、
大威張りで会津に来るかと思えば、
寒気がする。

重臣たちの御目見えにつづいて、
神社の神官、
寺院の僧侶と、
お目見えがつづく、
皆、芦名時代からの名門である。

国家老、重臣たちの進言により、
盲目の保科正之が、
成瀬一派懲罰の目的で会津に入った。

成瀬一派九名を
流罪にした保科正之は、
猪苗代付近で鷹狩を催し、
十月に江戸に戻った。

鷹狩のシーズンは、目前である。
酒井邸への御機嫌伺いで、
莫大な借金を抱えた
原田甲斐宗輔は、

はやる心を、抑えに、抑えて
伊達綱村の元服によって
久喜御鷹場の
返還が、
実現する日を、待った。

胆沢鷹場では、
田村宗良と、甲斐の息子、飯坂仲次郎らが
米沢城時代から続く
鷹匠組たちと、鷹の訓練を始めていた。

伊達綱村の
烏帽子親となった忠次郎は、
綱宗隠居事件で、
長宗我部浪人が上意討ちとなって以来
沈鬱な日々を送っていた。

漠然とした不安。






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最終更新日  2008年12月24日 18時57分14秒



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