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長宗我部元親の側近であった高嶋正重は、 長宗我部滅亡後、 新領主の山内家に仕え、 土佐藩江戸留守居役となった。 高嶋正重は、 長宗我部元親の三十三回忌に 「元親記」を出版した。 「元親記」は、 高嶋正重の養子である 畑久左衛門を通じて 忠次郎に渡った。 畑一族は、 北畠顕家の末裔で仙台藩士、 綱宗の家臣である。 綱宗の隠居事件のとき、 畑与五右衛門は、 綱宗を遊興に誘ったとして上意討ち、 その子畑鹿之助も流罪となった。 高嶋正重は、綱宗隠居事件の翌年死去。 養子の久左衛門は、 生家の畑姓に戻り、 土佐を離れて、江戸に出た。 豊臣の残党狩は、 逃げのびた妻子にまで及ぶようになった。 キリシタン弾圧も、 藩政レベルで、頻発している。 キリシタン女性として著名であった五郎八姫も、 晩年、仏教に帰依した。 大阪城が落雷、火薬庫が爆発炎上した。 その日が、秀吉の命日であったので、 命日祟り説が流れた。 大阪城番は、岩城重隆と土岐頼行、 多数の家臣が、爆死した。 何かが、大きく、変ろうとしている。 江戸詰めが決まった忠次郎、 津多を松島に誘う。 懐に「元親記」を入れて・・。 忠次郎、 月見御殿の柱に触れて、 「この木は、祖父長宗我部元親が、 土佐の材木をイカダに組んで、 淀川を上り、 伏見に運んだものです。」 政宗が秀吉から拝領した伏見城の茶室月見御殿は、 現在、伊達綱宗の隠居所となっている 伊達家品川御殿に移築され、 振り袖火事の以前に、 二代忠宗によって松島のこの地に移築され 類焼をまぬがれた。 円通院の大悲院とともに、 大火を逃れた 江戸開府期の、貴重な、桃山建築である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009年02月13日 14時42分22秒
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