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歴女の館 夢うさぎ塾・三館

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2008年12月24日
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保科正之が会津入りして、
流罪としたのは、
正経つき家老成瀬重次と、
名倉半左衛門、
成瀬長四郎、
名倉半五郎、
御子柴久弥、
原甚左衛門、
狩野久左衛門、
高木孫四郎の、八名だった。

流刑地は、
いずれも阿賀野川流域の
飯豊山麓である。

飯豊山から北は、
米沢藩上杉家の領地。

成瀬一派処罰を終えた
保科正之が江戸に戻ったのは、十月。

十一月から翌年三月までが
鷹狩のシーズンである。

伊達綱村の元服と、
成瀬一派懲罰による保科正之の復権と。
胆沢御鷹場では、
原田甲斐の息子飯坂仲次郎が中心となり、

保科正之の、下館御鷹場では、
正純が中心となり、
勇壮な鷹狩が開始された。

鷹匠頭の井深が、
一族で家老の井深重好に、
成瀬一派の
保科正之暗殺の
血判状の、存在を、告げた。

城代家老の田中正玄、
井深重光
柳瀬三左衛門、
一柳直好、
友松氏興の四家老が、

幼い正容の養育係である西郷頼母屋敷で
藤木一派対策の密談をした。

西郷頼母の母は、
先の城代家老保科正近の娘である。
叔父の保科正長が、
嗣子なくして亡くなった為、
叔父の養子となって保科家を継ぎ、
保科頼母近房を名乗ったが、
保科正長の側室が
男子保科小十郎を生んでいたことが
解ったため生家の西郷姓に戻り、
小十郎を保科家の嗣子とした。

その謙虚さに、大物の器を
見いだした保科正之の強い信頼を得て、
幼君、正容の養育係となった。

西郷頼母派と
藤木一派の対立は、
幕末まで続くことになる。

成瀬重次一派が、
保科政治の崩壊をねらう、
大老酒井雅楽頭の暗躍によって、
保科正之の死さえも願った
その動かぬ証拠が欲しい。

ひとまず、
老中の奉書をもって会津に入り、
成瀬一派八名を流罪にしたが、
三田屋敷の藤木万が幽閉を解かれ、
京都にいる弟の藤木織部と
綿密に連絡をとりあっている。

まだ二歳の正容さまの毒殺も、
やりかねない。

ここは、慎重に、
三田屋敷に出入りする女たちが
正容さまに近づかぬよう、
警戒しなければならん。

正容さまに、
お毒見役をつけねば。

われわれも、
三田屋敷から拝領のものは、
いっさい、食べぬようにな・・。


そして、三月。

伊達安芸が、江戸に出て直訴におよぶと、
仙台藩は、
江戸表の家老
柴田外記朝意、忠次郎と
津多の息子、原田甲斐宗輔に
受けてように、命じた・・。

三月七日、
板倉邸において評定。

三月十八日、
原田甲斐、覚え書きを提出。

三月十九日、
覚え書き、原田甲斐に返される。

三月二十七日、
評定の場は、酒井雅楽頭忠清邸に変った。
酒井雅楽頭は、
原田甲斐が、板倉周防邸に
金銀を贈った罪をせめた。

「それは・・、」
と、原田甲斐が唇を噛んだ。

久喜鷹場領域は、鷹場没収後、
旗本や老中の領地となった。
酒井雅楽頭が、大老となったのは、
没収した領地を分配したことによる。

その一方で、
久喜鷹場返還を餌に賂をとってきた。

いつものように、
酒井邸に呼びつけられた原田甲斐は、

「板倉周防が、
後見人の伊達宗勝は、吝嗇だと
言っておったぞ。」

と言われ、
その夜のうちに、
女籠に乗って、板倉邸に金品を届けた。

「罠だったのか・・。」



伊南与八郎は、保科正之に暇を貰い、
旅仕度をしている最中に、
酒井雅楽頭邸での事件を知った。

四月一日、
保科正之は、
尋常の事件ではないとして
甲賀の間者二名を仙台に送りこんだ。

伊南与八郎が保科正之に呼びだされ、
旅の予定を変更して、
仙台に調査に向かうことになった。

四月三日 
後見人田村宗良に閉門、
後見人伊達宗勝に流罪。

四月六日 
伊達綱村が江戸城で、
「仙台藩六十二万石没収のところ、
特に許す、今後は後見人なしで
国政行うこと」
を言い渡された。

四月十日   
保科正之の調査隊が、仙台から戻った。
保科正之は、
見えない目に涙を浮かべた。
綱宗代理として、
初めて、
江戸城に姿を見せた原田甲斐宗輔。
その、はつらつとした笑顔が脳裏に浮かんだ。

殉死禁止法への反対勢力の多い
仙台藩にありながら、
正面きって人道主義を唱えた、
原田甲斐宗輔。

「これから、後見人なしで国政を行うこと・・か。」

後見人なしで・・・。
それは、
戦後世代の文治政治
保科正之の
後見人政治に対する
あからさまな弾圧だった。

篭城を主張した
原田甲斐家老片倉隼人が、
恭順派の家老堀内清長と口論のすえ、
自邸に火を放って自害した。

五月九日   
保科正之は、
武田信玄の娘見性院の
三十三回忌の法要を行った。
正容の養育係西郷頼母の
曾祖母は、
武田信玄の勇将、甘利氏の娘である。 

五月二十八日 
後見人田村宗良の岩沼三万石、
後見人伊達宗勝の一関三万石の返還命令がくだされた。          

保科正之の後見人政治と、
それに歩調をあわせて
久喜御鷹場安堵を求めた
仙台藩後見人政治・・。

一石二鳥で、つぶれていくと、
ほくそ笑む、酒井雅楽頭。

保科正之の脳裏に、
災害復興資金をめぐって
「吝き雅楽、こころずくしの豊後殿・・」
と詠まれた時の
酒井雅楽頭の悔しげな顔が
うかんだ。 

酒井雅楽頭忠清の父酒井忠世は、
伊達政宗軍とともに
大阪陣に奮戦した軍隊だった。
徳川四天王の凄まじい働きに対して、
父、徳川秀忠の活躍は、
やや見劣りがする。

井伊直政は、
秀忠の同腹の弟
忠吉の後見として、
徳川忠吉を二代将軍に推した。

秀忠が二代将軍となったのは、
正室が、淀君の妹であるからにほかならない。
忠吉が、
失意のうちに世を去った時、
忠吉の怒りに触れて、
松島に流罪となっていた家臣が、
江戸に戻り殉死したことが美化されて、
殉死ブームに火がついた。

命を捨てる事以外に、
奉公の仕方を知らない戦国武将。
その不満を結集した形で、
酒井政治の専横政治は、
殉死禁止法案から
揺らぎはじめた保科政治を、
押し倒していく。

なんとしても、
くいとめなければ、ならない。
        
東照権現様・・と、
保科正之は、
見えない目で、闇を睨んだ。

六月五日    
原田甲斐の息子で船岡城主の原田宗誠、切腹。
他家に養子にはいった
原田甲斐の息子
飯坂仲次郎、剣持五郎兵衛、平渡喜平次が、切腹。

原田甲斐の、
一歳と五歳の孫が、
斬首となった。

六月十ニ日   
恭順派の原田甲斐家老堀内清長、
予想以上の厳しい処罰に絶望し、
息子に遺言状を残して自害。





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最終更新日  2008年12月24日 20時23分55秒



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