カテゴリ:カテゴリ未分類
藤木万は、 助命した四人の赦免を 主張して譲らなかった。 酒井政治が続く限り、 藤木万の政治関与を排斥することは、 困難に思えた。 友松氏興は、 キツネの祟り説まで持ちだし、 四人の赦免を繰り返し主張する藤木万と、 根気よく戦った。 「成瀬一派の処罰は、大殿の御遺言。 女狐・・じゃなかった、メンドリが時を告げれば・で、 政治への口出しを禁じられたるものを、 四人の助命を主張なされたこと、 そのものが、大殿の御遺言に背いておられる、 その上、四人の赦免とは。 天災地変が狐の祟りじゃから、 領民を救うため四人を赦免せよ・・などと、 天災時に会津の領民を守ったのは、 大殿さまが定められた社倉法で、 御稲荷様のご利益じゃ、ございませんです。」 「大殿の御遺言、 大殿が定められた御家訓を、 お守りすることこそ、 メンドリの・・じゃなかった、 女狐の・・じゃなかった、 鳥インフルエンザ対策のじゃなかった 領民を天災地変から守る為の 最良の方法ではありませぬか」 「お稲荷さまの御利益じゃ」 「社倉法でございます」 「お稲荷さまの御利益じゃ」 「社倉法でございます」 「お稲荷さまの御利益じゃ」 「社倉法でございます」 「お稲荷さまの御利益じゃ」 「社倉法でございます」 藤木万対友松氏興の、泥沼状態。 「友松殿、大丈夫かい。 呪い殺されねぇように、しらんしょよ。」 はじめての国入りを果たした伊達綱村は、 三千四百八十人の供揃いで、名取郷にさしかかった。 名取郷の植松飯野坂地区には、 船岡城落城後、 原田甲斐の家臣団三十七名が、 新百姓となって移り住んだ。 彼らは、 原田遺臣であることを示すために、 門の側に「はなもも」を植えた。 歌枕として名高い 藤原実方の墓に向かう途中の分岐点から、 美しいはなももの里が続く。 藤原実方は、 一条天皇の宮廷歌人で、 閣僚には、紫式部や阿部清明、清少納言、紀貫之。 源氏物語は、 事件を起こして陸奥国司として左遷された 藤原実方を光源氏のモデルとして描かれた。 色男金と力はなかりけり・・で、 藤原実方は、 名取郷で落馬して死んだ。 のちに、 松尾芭蕉と名を変えた 松尾宗房が、 奥の細道の旅の 目的地の一つに定めた 有名な、歌枕である。 仙台城下から名取川を渡り、 伊達綱村の参勤交代の行列が、 はなももの里に入った。 原田甲斐遺臣が舞う 出雲系鹿島神社神楽が演じられた。 綱村の視線が、神楽の舞台にそそがれた。 家臣が、すすみでて 「あのものたちは、原田甲斐の遺臣たちにございます」 と、綱村に告げた。 伊達綱村は、名取郷の神楽を、 「花町神楽」と改名せよと命じた。 政宗嫡孫、伊達光宗の没後から、 嗣子綱宗の代理として、 将軍家との鷹場交流を支え、 綱村成人と久喜鷹場返還にむけて、 血のにじむような努力を続けてきた原田甲斐宗輔。 その人生は、 天皇崩御の後、幼い皇子の成人即位の時まで 皇位を継いだ後西天皇 伊達綱宗の従兄である「花町宮」に重なる。 品川屋敷に、 長い隠居生活をおくる伊達綱宗は、 文芸ざんまいの晩年をおくる。 松尾宗房が出入りする俳人サロンの主人、 磐城平藩主内藤義概。 俳号「風虎」 保科正之の正室菊姫の甥にあたる。 隠居の父内藤忠興が、保科正之邸を弔問して、 会津藩家老友松氏興より、 保科正之の遺言のことを聞いてから、 息子の義概を通じて、 影ながら会津藩四家老を応援している。 上方から俳諧師匠西山宗因を招いて 俳人サロンを開いた内藤義概は、 保科正之が確立した文治政治の信望者である 俳人サロンに出入りする画人、文人を通じて 藤木万と友松氏興の猛烈バトルは、 江戸庶民の耳目を集めることになった。 事件後、御鷹場を拝領した酒井雅楽頭。 事件後、 酒井雅楽頭の専横政治を批判し 辞職した伊達光宗のまた従兄弟、池田光政。 彼もまた、 祖父池田輝政が 十余年の歳月をかけて築いた姫路城を 藩主幼少を理由に没収された。 松尾宗房は、 京都俳諧の重鎮である北村季吟に 俳諧師匠の免許を与えられ 江戸にカルチャー・スクールを開いたが、 なかなか食べていくことが出来ないので、 内藤家の俳人サロンに出入りするようになった。 松尾宗房は、 酒井雅楽頭邸で起きた真相不明の刃傷事件が、 会津藩の派閥抗争に源を発していると察知した。 忍者の里伊賀上野城下に生まれた松尾宗房、 容易に 仙台藩から戻った 間者たちから情報を得ることができた。 京都は、北の賀茂神社、西の松尾社、南の稲荷社が、 古代山城の三大信仰圏である。 保科正之の側室藤木万を旗手として、 これまで行われてきた京都藤木一派の江戸進出は、 藤木万と友松氏興の猛烈バトルとともに、 行き詰まるに違いない。 下馬将軍の異名をとる大老酒井雅楽頭も、 刃傷事件後、お手盛り加増などで、 専横政治への風邪ーあたりが強くなっている。 あまりにも露骨な、 保科政治と伊達家後見人政治つぶし。 流石に、 保科正之公は 東照宮権現さまの御尊孫、 御家訓、御遺言によって、会津藩を守られた。 処刑された成瀬重次の遺児を、 酒井家に預かったり、 藤木万の弟藤木織部を通して、 朝廷勢力と通じ 戦後民主主義勢力を本格的に排撃して、 幕府の実権を握ろうと考えはじめた酒井雅楽頭。 世評は、 めまぐるしく変った。 鎌倉幕府への回帰願望をひめて、 ノー・モア・ヒデヨシを打ち出した 江戸幕府の主流派を、 ここでまた、 酒井雅楽頭忠清の 個人的野望が壊そうというのか、 いや、関が原のやり直しも面白いではないか やんややんやの野次馬たち。 伊達家品川屋敷に招かれた松尾宗房。 「大火の前に、松島に移築されたという 月見御殿のことを、私、よーく、存知あげております。」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009年02月13日 14時48分59秒
|