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五月四日
松尾芭蕉一行は、どんよりとした雨雲の下を、 白石城下から、寛文事件の遺恨が残る船岡城下に入った。 「酒井雅楽頭失脚の後、この船岡城には、 例の、柴田外記さまの遺児、柴田宗意どのが入られました。 柴田家の家臣たちは、もともと、源平の時代から続く 船岡城下の地侍たちで、ございますから。 柴田外記朝意どのの実弟たちが、 養子に入られた柿沼家も五十嵐家も、同様にございます。」 「柴田外記朝意、始皇帝の末裔か・・。 大阪城落城の折、四歳で仙台へ逃げのびた、忠次郎どの・・。 父は、土佐久礼城主佐竹親栄、母は、長宗我部阿古姫・・」 「これは、驚いた、よく、ご存知で・・。」 「・・・・。」 「・・・・。」 「仙台城下は、藩主綱村公の家臣橋本というものが、 御案内する予定になっております。」 「城下に入る前に、歌枕、名取郷の藤原実方の墓を訪ねたいのだが・・。」 「名取郷・・・の。」 「道祖神に、いざなわれて奥州路を・・」 「・・・・。」 「道祖神と、藤原実方の墓を・・」 「・・・・。」 「・・・・。」 名取郷が近づくにつれて、 地元の人々は暗い沈黙のうちに 芭蕉一行から身を離していった。 芭蕉一行は、 頭上の雨雲に押しつぶされそうな 沈鬱な思いで、名取郷の分岐点に立った。 そこは、船岡城落城後、 原田家家臣団三十七名が帰農し、 移り住んだ飯野坂植松地区への道と、 道祖神社、藤原実方の墓への道の分岐点である。 松尾芭蕉は、 花町神楽が奉納される鹿島神社に入り、 道案内を頼んだ。 一度は、武士になろうと志をたてた松尾芭蕉である。 周囲に漂う激しい殺気を、感じずにはいなかった。 閣僚に、紫式部、清少納言、紀貫之、安倍清明などがならぶ 一条天皇内閣の宮廷歌人藤原実方。 陸奥国司に左遷され、紫式部の「源氏物語」の 光源氏のモデルとなった藤原実方。 西行法師も訪れた藤原実方の墓、この著名な歌枕を、 訪れずして、なんのための、奥州路の旅ぞ。 そう思う、松尾芭蕉だったが。 「残念ながら途中の道が、雨でぬかるみとなり、御案内かないませぬ。」 激しい警戒感を秘めた眼光を放ちながら、 武家言葉でいんぎんに語る新百姓たち。 庭には、原田家遺臣であることを示す、はなももの樹。 松島の月見御殿。 夫とともに、赤ん坊を抱いて、 縁先に座っている藤子。 お種・・と一人二役。 「なんとまぁ、猿のように、赤い顔じゃのう」 「赤ん坊は、赤いものでございます。 赤いから、赤ん坊と言うのでございます。」 奥の細道の終点は、 伊達綱村の母方の祖父、 氏家氏が城主をつとめたことのある大垣城下。 伊達綱村の側近政治に 伊達一門と重臣から諫言状が出され、 綱村もまた、 幕府から隠居を命じられた。 五代藩主となった伊達吉村は、 月見御殿を、観瀾亭と改名した。 享保十一年、 藤子は、六十一歳で没した。 大衡城主戸田家の菩提寺である昌源寺にのこる、 藤子の墓は、 戸田家歴代の墓より、北に少し登った 墓地最上部にある。 椿の文字の入った戒名にちなんでか、 椿の古木が、墓の背後に残っている。 椿は、武士の潔さ・・を 象徴する花でもある。 延享三年、「伊達騒動」初演。 「伽羅仙台萩」に代表される伊達騒動の演目は、 仙台藩領での上演を厳しく禁止された。 1777 伽羅先代萩 1778 伊達競阿国劇場 1782 隅田川柳伊達絹 1786 貢信田豊年 1788 高尾大明神 高尾宮本本地開帳 1789 姿伊達契情容儀 1792 傾城金坪目 1792 伊達模様楓袖 1793 松太夫雪伊達染 先代萩 1794 二本松陸奥成長 1795 遊君操吉原計略 1798 伊達姿萩燕都袖 1799 大三浦達袖 1799 伊達衣装曲輪好 1800 伊達染契情容儀 1800 意計高尾伊達染 1801 全盛伊達曲輸入 1805 伊達姿花見御殿 1808 伊達競阿国劇場 1825 伽羅絹川堤 1826 伽羅先代萩 1827 伽羅先代萩 1836 伽羅先代萩 明治六年 伽羅先代萩 昭和二十五年 伽羅先代萩 NHKラジオ第一 昭和三十四年 舞姿先代萩 昭和四十一年 樅の木は残った 山本周五郎 大阪中村座 昭和四十五年 樅の木は残った 山本周五郎 NHK大河ドラマ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009年01月05日 19時16分42秒
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