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「自民党憲法草案の条文解説 前文~40条」 を参考にして次に天皇について書かれている第一章を見ていこうと思う。ここでのポイントは「元首」という言葉ではないかと思う。「象徴」という言葉で書かれていた現行憲法の天皇を「元首」と呼ぶことにしていることの意味はどこにあるのか。 元首の辞書的な意味は次の通りだ。 「有機体としての国家の首部だとか,国家権力の全能者という元首の観念はほとんど歴史的役割を果たし終え,今日では,通例,対外的に国家を代表する地位にある国家機関をいい,条約の締結,外交使節の任免,全権委任状・信任状の発受などの外交権能を伴う。元首を,君主のように世襲によるものとするかどうか,合議機関(例,旧ソ連邦最高会議幹部会)とするかどうか,また実質上行政の首長として国政を統轄するものとするかどうかは,それぞれの国の憲法の定めるところによる。」(http://kotobank.jp/word/%E5%85%83%E9%A6%96「世界大百科事典 第2版の解説」) この定義に従って日本の天皇を考えれば「元首」であるという判断も出来る。その意味が辞書的な範囲にとどまるのであれば、現行憲法の「象徴」と大した違いはない。自民党のQ&Aでは、あえて「元首」と記述するかどうかが議論されたと語っている。つまり、辞書的な意味では「元首」として扱われているのは事実なので、わざわざ言う必要はなかったのだが、記述することに意味を見いだしていると言うことだ。ではその意味はどこにあるのか? それはQ&Aには記述されていない。多数意見だったから記述に入れられたと言うことが書かれているだけだ。むしろ反対論が語られていて、「元首」とすることは天皇の権威をむしろ落とすことになると感じる人もいたようだ。世俗性が入り、雲の上の存在という意識が薄れるのを心配したようだ。 辞書的な意味にとどまることなく、具体的な意味として何を想定しているのかを自民党は全く説明していない。しかし、その象徴性を何かに利用しようとしている意図を感じる。それはどのように利用されるだろうか。かつては天皇の言葉は絶対不可侵のものとして批判が許されなかった。天皇を錦の御旗とすることによって自らの言説の正統性を調達していたというのがマル激などで宮台真司さんによく語られていたことだった。 合理的な思考をすれば押しつけられないような理不尽なものを、天皇の権威を背景にして押しつけようという意図はないだろうか。解説では、「日の丸君が代は天皇の章(3条)に規定されており、天皇制と不可分であることがわかります。国旗国歌の規定を新設しただけでなく、尊重義務も課しています」という指摘がある。 http://iwj.co.jp/wj/open/archives/46966 「2012/12/28 自民党の憲法改正案についての鼎談 第2弾」 での指摘でも国旗・国家の押しつけとしての東京都教育委員会の問題を指摘していた。これらは、合理的に考えれば、思想・心情の自由に属するもので、その押しつけは現行憲法に照らして考えれば憲法違反になる。それが自民党草案では、憲法でその押しつけを認めてしまっているようにも見える。 Q&Aでは、「国旗・国歌を巡って教育現場で混乱が起きていることを踏まえ」この記述を入れたと書かれている。つまり混乱を治める目的がそこにはあると言うことだ。混乱を治めるというのは、自由に選択させると言うことではない。教師であればそれを尊重しろと言うことを押しつけると言うことだ。 天皇を「元首」と呼ぶことの意図には、その権威を利用するという考えがあり、権威を強めるために国旗・国家の押しつけという理不尽をも甘受するような奴隷的心情を強めようとしているのではないか。それに反対するようなものは悪い奴だというような空気を作ろうとしているのではないか。 自由を圧殺し、道徳性を押しつけて奴隷化するというのは、今学校で問題になっている体罰の弊害そっくりのものだ。基本的な思想性がこのようなものになるような憲法を作ろうとしている自民党が、正しい民主主義的思想で自由を守れるとは思えない。日本社会はますます重苦しい不幸な空気が蔓延するのではないだろうか。天皇を「元首」と断言したい心情に、そのような反民主性を感じる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013.01.27 18:44:08
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