Karmaは気まぐれ?
アカデミー旋風も吹き終わって、「おくりびと」は原作者の意図通り、人々に、死生観を振り返らせることが出来たのだろうか。軍事力と封建と信仰と宗教と哲学と伝統と文化と道徳、民族的アイデンティティ。日本は戦後、国土と引き替えに切り売りし、時にかなぐり捨てて邁進してきた。そして今、生きていく思想力というか、土性骨というか、これらはいかにも脆弱だ。「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」(ゴーギャン)ありとあらゆる人種、思想背景、時間軸を問わず、この大命題に答えるべく、宗教は始まったと、私は考えているのだが、今、私達はこの哲学を己に問う時間と方法論さえ、持てなくなっていないだろうか。「僕は、ほぼ半年の間、ずっと考え続けていた。僕の生と死と、それから一人の友人について。」(「トーマの心臓」 by萩尾望都)友人についてはお生憎だが、私も考えていたのだ、生と死を。大仰な前振りだけど。 友人が、弱っているノラ猫を見かねて養い子にした。人懐っこいけれど、大人猫だし、病気を持っているのも明らかなのに。長年、猫といちゃついてきた私でさえ、飼いきる度胸はないというのに。なのに家に連れ帰り、その猫の今までを、全て塗り変えるほどの愛情を注いでいる。件の猫は、一体、前世にどれほど良き行いを積んだのだろう。 くり乃さんを、私は時々「元マザーテレサ」と呼んでいる。前世に滅私を尽くしたから、くり乃さんは、今、安穏を許されているのだ。(もっとも、ご本猫が、安楽だと思っているかどうか、てか思ってないだろ)でももしかしたら、親の手で命を落とした、哀しい子供だったのかも知れない。だから現世で、彼女は愛を尽くされ、貪ることを許された存在なのかも知れない。だからって、私の愛情はクールだけど。友人の猫も、前世で持てたはずの幸せを全うすべく、今、生かされているんじゃないか。 友人の猫が、過去生で持つはずだった幸福が、途轍もなく大きな物であったことを、祈る。今生で消化するための時間が、うんとたくさん、うんと長くかかるほどの、たくさんの幸福を、前世で置き忘れてきたことも。その幸福の持ち分は、来世になんか持ち越さなくていいんだよ、今、思う存分、たっぷり時間を掛けて貪り尽くさなくちゃいけないんだよ、赤星君。 Karma(業)とは、己が天(神か?)に対して、築かねばならないものなのだ。だから、気まぐれ(Chameleon)であってはならないと思うの、BOY。Karma Karma Karma Karma Karma ChameleonYou come and go. You come and goLoving would be easy if your colors were like my dreamRed, gold and green. Red, gold and greenカーマ、カーマ、カーマ、カーマ、カーマ、君はカメレオンだよあっちにこっちに、行ったり来たり君の色が僕の夢に染まるなら、愛って簡単なんだけどそれが赤でも金でも、緑でも "Karma Chameleon"(カーマは気まぐれ)友人の行いが宿業に、光熱を発する化学反応を起こすことを、私は祈っている。 さて、ずっと考え続けていたもう一つのことは、国会でも取り上げられた臓器移植。兼ねてより言いたいことは多々あれど、こればっかりは.....。お天道様、私に勇気を下さい、語りだす勇気を(笑) シスター、お顔がうつろでございます......。