|
カテゴリ:考古学
池澤夏樹「パレオマニア」の取材方法を真似て、博物館で好きな遺物を2つ選んで、その発掘地に行き、記事を書くということをやってみたい。
久しぶりに古代吉備文化財センター(岡山市北区花尻1325-3)に行くと、企画展「真金吹く吉備」をしていた。その感想はまたの機会に。 何度もきているので、選ぶ遺物の目処はついている。当然弥生時代。 ひとつは、コレ。 吉備の国発祥と言われる「分銅型土製品」である。名前の由来は、江戸時代に使われたばかりのおもりに似ているためであり、分銅として使われたわけではない。これまでに中国・四国・近畿・北陸・九州から900点あまり出土して、そのうち4割が岡山県出土となっている。 私の一番好きなのはコレ。岡山市加茂政所遺跡出土。もうどう見ても、赤ちゃんの顔に見える。しかし、これを赤ちゃんの顔だという研究者はあまりいない。これは「顔」であるということでは意見は一致している。しかし、目が左右対称では無いことなどに注目している。微笑んでいる様に見えるのは、「のちに埴輪にも見受けられる『魔除けの効果』」を狙ったのだという見方である。 ひとつ発見したのは、普通壊れた形で出てくるのが多いのに、これは完成形で出土したのである。近くから出土した顔つきのが無表情で壊れた形で出てきたのとちがう。また、この土製品は、下がむしろ大きく、ホントの分銅型をしていて、いわゆる普通の分銅型土製品とは違うという指摘もある。弥生時代後期の最終次期の製品らしく、何の意味があるのだろうか?左右に一般的にある「穴」はついている。 現在の研究では、子どもの枕元に置く魔除けではなく、上に飾り物を刺せる穴もあったことから、額につけて使ったのでは無いか?という説もある様だ。この土製品にも穴はあったが、飾り物の穴はなかった。また、思ったよりも鼻は高くて、ちゃんと鼻の穴は二つある。くびれは小さい。よって最初から壊さないことを前提にして作ったということだろう。だとしたら、壊して魔物を他所に持っていく効果とは違う祭祀に変化したということだろう。弥生時代後期の中頃、ここで何が起きたのか。ひとつは、楯築遺跡に繋がる、王の出現だということなのだろうか。 私はセンター職員に聞いて、出土場所に行ってみた。場所は、文化財センターから吉備津神社に降りて、180号線を西進し、山陽自動車道と交わるところである。その工事中に発見された遺跡なので、今は高速道路の下になっている。東側はすぐ緩やかな、ちょっと見には神南備山に近い形の山が迫り、北も山が近くにある。 西は足守川がながれ、南にはほとんど小森にしか見えないが、楯築遺跡の小山が見える。走って30分ぐらいだろうか。吉備国中枢祭祀場から生活圏にある、津寺遺跡と併せて、この辺りは、まさしく吉備国の中央地区だった気がする。常に楯築の山を見ながらの生活だったのだ。 私は、やはり、子供を助けるための祭祀だったと思う。集落で行われた豊作を祈る祭り(青銅器祭祀)が下火になるにつれて分銅型土製品も姿を消したこと、家々での出土だったことを考えると、村の祭りを司る力は低下して、王国の強力な呪術の力が、人々の生活を守る様になっていったのかもしれない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年01月22日 22時09分12秒
コメント(0) | コメントを書く
[考古学] カテゴリの最新記事
|
|