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カテゴリ:考古学
古代吉備文化財センターで選んだ遺物のふたつ目は、「袈裟襷文銅鐸」である。2014年に、180号バイパスを建設中に総社市福井で見つかりました。
場所は神明遺跡。総社市北側の今は田んぼが広がるところですが、出てきた遺物をみると、総社平野を代表する集落だった様です。その後、この東側南側は吉備国の中枢になるわけですが、弥生時代は未だ一集落だったのでは無いか。 銅鐸は山の中腹で見つかることが多い。埋納状態が明らかにならないことがあるが、ここは集落の中で、埋納状態が詳細まで明らかになった。しかも、吊り手に流水紋を飾る珍しい中期の銅鐸だった。使われていた形跡もあり、それが埋納されたということは、長く使われた銅鐸が「何故」「此処に」「いつ」埋納されたのかという「謎」を解く材料がひとつ増えたことを意味する。 しかし、未だ謎は解けていない。 山の中腹にしろ、集落の中にしろ、楕円形をした穴の中にヒレを上下にして横たえるという形式は、どこでも同じ。ということは、銅鐸をめぐる全国的な「教え」があったということなのだろう。 いつ、埋納したのか、ハッキリ分からない。けれども、紀元前後ではないか、とあの頃の発掘担当者は言っていた。と、すると、その150年後に楯築の王の祭りがあったわけだから、その150年間の間に銅鐸の共同体の祭りから、王を弔い、王の神権を継承する方に、人々の関心が移ったと見なくてはならないだろう。 発掘地は、5-6年前に現地説明会に行った頃とあまり変わっていなかった。 古代吉備文化財センターにある資料しか見ていないので、池澤夏樹の取材よりも遥かに簡単であるが、発掘報告書や博物館の説明書を読むだけで、現地に行って書くだけでは、レポートようし一枚にもならないことがわかった。本になるぐらいの取材旅というのはどんなに大変なのか、逆にわかった気がした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年01月23日 16時58分01秒
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