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テーマ:本日の1冊(3693)
カテゴリ:読書フィクション(12~)
し「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」リリー・フランキー 新潮文庫
主人公の〈ボク〉が東京に出るまで、ほぼ毎日読んで2週間かかった。読み通すことが出来ない本は他に幾つもあるのだけど、どうしてこんなに読むのが遅いのかよくわからなかった。 〈ボク〉と僕は、ほぼ同世代だ。僕にとっては異次元の世界と、同次元の世界が、交差しながら進む「1人語り」に、僕は幼少時を追体験してお腹いっぱいな気分になっていたのかもしれない。 どんなに平凡な人生でも、ついつい誰かにむかし語りを始めれば、それは途轍もなく面白い物語になることがある。筑豊から出てきた少年が、東京で紆余曲折して、オカンの最期を見届ける。少年期がとてつもなく面白い。要は語りようなのだろう。 「小学生になって、ボクは突然、活発な子供になった」1人汽車、学芸会の仕切り、イタズラ、柔道場通い、白いままの夏休み宿題、麻生何某の選挙ポスター掲示板の柱のバット転用等々、ひとつひとつのエピソードを膨らませば、一冊の本になりそうなことも、数文字で済ませて、怒涛の如く少年時代が過ぎてゆく。 そういうひとつひとつが、僕と全然違う。〈ボク〉の初レコードは「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」だったという。僕のそれは南沙織の「色づく街」であったこともつい思い出してしまう。そうそう、500円のレコードだった。親子には簡単になれるけど、家族は違うと感じてしまう〈ボク〉とは違って、僕は当たり前のように親子も家族も満喫していた。そのこと自体にショックを受けて、なかなか前に進めない。 東京に出てきてからの〈ボク〉は、一般的に自堕落な80年代の若者を過ごし、一般的に独り立ちをして、一般的にオカンを東京に呼び寄せる。本人は次第と一般的ではなくなってゆくのだけど、仕事と恋の描写は見事に省略される。何故かスラスラ読めてしまう。 本屋大賞コンプリートのために読み始めた本。読み終わった今ならば、僕も母親と父親の最期までの長い物語を書けそうな気がする。読んだ直後のほんの1時間の間ぐらいの走馬灯の勘違い。 脳内再生は、どうしてもリリー・フランキーにはならない。どうしてもオダギリ・ジョーになってしまった。しかも朝ドラ出演中の60年代のジョーになってしまう。脳内再生はどうしてもオカンは樹木希林になってしまう。内田也哉子さんはあまり再生されない。 リリー・フランキー自体は作家よりも前に凄い役者なのだ、という僕の刷り込みがある。2013年の「そして、父になる」の優しい父ちゃんと「凶悪」のサイコパスの振り幅の凄さ。その源泉を、この作品から読み取ることができる。そうか、どちらもちゃんと見てきたものだから演じることが出来たんだ。 ひとつどうでもいいこと。この文庫本は、2010年の初版のまま、岡山の本屋の棚の一番下に並んでいた。つまり、11年間売れることもなく、返品されることもなく、居続けた。新潮文庫「7月のヨンダ?」チラシが挟まっていた。凄いことだ。これが本屋大賞受賞作としての、実力と運命なのだろうか。 ごめんね、そしてありがとう。 そうだね、僕も逝ってしまった人に そんな言葉しか浮かばない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年01月28日 13時40分44秒
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