ヘアースタイルは難しいですね
昨年12月、1,000円カットのどえらい元気の良くはさみを振り回すお姉さんに、囚人の様な髪型にされてから早3ヶ月…やっと勤め人に見えるような髪型になってまいりました。しかし、正面から見るとそれなりには見えるのですが、横から見ると真ん中の辺りだけが丘陵地にある段々畑のように短く刈り込まれていて、いまだにお客様とお話しする時には首を固定して絶対に横を向かないようにしております。まるで運動音痴な中年が、いい年をして始めたロボットダンスのような動きをしているようで恥ずかしいのですが、もう少しの間いたし方ありません。実はわたくしの母は「床屋」を営んでおりました。若い理容師さんが2人、見習いの人が2人と母の合計5人で営業をしておりましたから、田舎町ではまぁまぁの規模だったと思います。またそのおかげで、わたくしは順番待ちのお客様用の「少年マガジン・サンデー・キング・ジャンプ」を全誌読むことが出来き、それが現在の60年代半ばから70年代漫画マニア(評論家とかおたくじゃないですよ)としての礎を築いてくれたのは事実ですから、新しい髪型が流行ると子供向けの髪型ではないのに無理矢理実験台でビートルズのようにされて「ドイツ軍のヘルメット」とか、見習いの人の練習に7:3ビッタ分けにされて「父っちゃん坊主」とか、学校でバカにされたり、いじめられたりした事もあり、その当時は家業を恨んだりも致しましたが、現在は「床屋」の息子であった事に感謝を致しております。母の店は、今で言う“JR”駅の前にある、5階建ての「駅前ビル」の1階にありました。その名も…「駅前ビル理容院」…きっと3秒で店名を決めたのでしょうね。母の店は昭和40年頃の開業だったと思います。その当時開業していた理容院は全店統一料金での営業だったそうです。しかし、母は父の実家の呉服屋さんを退職しての新規参入でしたから、今で言う1,000円カット店のような「激安店」として開業しました。きっと老舗で職人気質の同業者の方々からは疎まれていたでしょうね。現在大都市に大きく展開している1,000円カット店ですら、既存の理容院から衛生面で不備があるのではと指摘されたりした結果、洗髪台の無い店には営業許可を出さないと条例で定めた県もあるそうですから、閉鎖的な田舎町で激安店として開業した母の店は、かなりの横紙破りだったのだと思います。わたくしが中学生の頃まで営業をしておりましたが、その後理容師さん達の結婚や独立などで従業員さんを確保出来なくなり廃業を致しました。母の廃業後わたくしの散髪は「駅前ビル理容院」から独立した「U山理容院」でお世話になっておりましたが、新しいもの好きな理容師さんでしたから、その頃わたくしはすでに高校生になっておりましたが、相変わらず「実験台」にされておりました。高校2年生の秋になり卓球部の3年生も引退しやっと坊主頭からも開放され、修学旅行も近くなったので、出来損ないの剣山のように伸びてきた髪を揃えに久し振りに「U山理容院」に行きました。ドアを開けて入ると「おお熊やん久し振り…ああ当たり前か坊主頭じゃ床屋に用はないものな」と笑顔で歓迎してくれました。椅子に座ると…U山さんがいつもの様に話し出しました。その頃都会の高校生ではリーゼントが流行っていたようで、“U山さん”は、これからは田舎でもリーゼントが流行すると読んでいたようです。「熊やんどうだい?キャロルの矢沢永吉や宇崎竜童みたいでカッコ良いからアイパーかけない?まだ田舎ではあんまりしてない髪型だけど絶対流行るよ!」なんて言うのですが…わたくしは「ツッパリ」ではありませんでしたし、そんな頭で修学旅行に行って「京都の新京極」で他の学校のツッパリにからまれるのも嫌ですから「修学旅行も近いですから普通にして下さい」と丁寧にお断りいたしました。しかし、戦法を変更した”U山さん”が「今日はタダにするから、お母さんには言わないから、床屋代修学旅行の小遣いにすれば良いよ、なっ!いい話だろう?」なんて、美味しい話をされ、つい乗っかってしまい“アイロン”を1時間以上もかかって当ててもらい、生まれて初めてコッテコテのオールバックにしたのでした。(最初で最後にしました。)鏡に映るその姿は“U山さん”が言うような「矢沢永吉」や「宇崎竜童」にはまったく見えずに「これで背広を着たらまるで漫才師だなぁ…」としか思えなかったのですが、“U山さん”があんまり褒めるので、ついついわたくしもその気になってしまい、ほんの少しだけ自慢げに登校したのですが…やはりリーゼントで決めるのには、坊主からやっと伸びた前髪では短過ぎたようで同級生達につけられたあだ名は…「ドラキュラ」でした…登校用に紺のステンカラーのコートを着ていたことも余計に「ドラキュラ」を連想させたのでしょうが、「東洋のロックンローラー」を気取っていたわたくしが、「東欧を代表する吸血鬼」となって、津軽海峡を渡り、京都、奈良と日本の古都巡りをしたことを、あまりの恥ずかしさに今でも忘れることは出来ません。