カテゴリ:声楽曲
ドイツの人たちの暮らしの中で秋になると近隣の大小の教会でバッハのカンタータの演奏が行われているそうです。どこの教会で何番のカンタータが上演されるかが分かるように、特別なパンフレットが発行され、なおかつ無料で聴くことができるとの事。まさにバッハのカンタータはドイツ人の生活の一部なのですね。 バッハはドイツ生まれ、1685年~1750年の生涯、当時としては比較的長生きをした音楽家です。今日はバッハの小さい頃、青年時代の逸話を中心にご紹介したいと思います。 小さい頃のバッハは合唱隊に入っていた事は確からしいとの事。当時の合唱隊は二つに区分され、一つはルター派のラテン語の聖歌。そしてもう一つはドイツ語のコラールを単旋律で歌ったもので、より若く、未熟な少年たちによる<クレンデ>とより音楽的な者たちによって構成された<ポリフォニーコルス・ジンフォニアクス>と呼ばれてものでモテットやカンタータを主に歌っていました。 バッハが作曲している宗教曲のふるさとはその作品群(ルネサンス期の巨匠=ヴァルター / ヨハン・クリストフ・バッハ / ヨハン・クリストフ・バッハ←最初の妻マリア・バルバラの祖父)にあるようです。
バロック絵画◇カンタータ バッハは10才になるかならないかで両親を失ってしまいます。そこで兄クリストフバッハ(オールドルフのオルガニスト)の指導の下にクラヴィーア(今でいうチェンバロやピアノのような鍵盤楽器)演奏の基礎を作りました。ただバッハの学ぶ意欲は計りしれず、兄が自発的に学ぶように与えた教材はすべて短期間で習得してしまいます。そして兄の持っていた別のクラヴィーア曲集(最も有名な巨匠=フローベルガー、ケルル、バッヘルベル 等)を見せて欲しいと懇願しても叶いませんでした。 そんなある日、バッハは兄がしまってあるそれらが格子戸だけで仕切られていた戸棚の中に有ることを知っていた事、そしてまだ手が小さく伸ばすたらとれるような場所だった事で、みんなが寝静まるとこっそりをそれを持ち出しました。当時は蝋燭の火はとても貴重なものでしたから明かりとりは許されず、月光をたよりに何と6ヶ月間写譜を続けたのです。でも結局最終的には兄に見つかり取り上げられてしまったようです。 皆さんの子供の記憶の中にもそれに似たような思いではないでしょうか。本当に欲しいもの、手に入れたいもののための努力、知恵は時として、自分自身気がつかなかった力となるものではないでしょうか。今日のように物、情報の溢れる社会では発想も貧しく想像力を働かせる力も育たないと改めて考えさせられませんか。 さて、もう一つのお話です。バッハも18歳になるとその才能が認められザクセン=ワイマール公爵の宮廷オルガニストとして、アルンシュタットの新教会のオルガニストのポストに就くことになりました。そうして20歳になったある日、ガイヤースバッハ(23歳で5年留年、未だ生徒の身分)から喧嘩をしかけられます。それはバッハが或る時、「へっぽこファゴット吹き」と彼をなじったことが原因でガイヤースはそれを根に持ち待ち伏せ、バッハが腰に下げていた剣を抜いたか抜かなかったか、そんな喧嘩騒ぎになったのです。長老会では「喧嘩両成敗」と事なきを得ますが、その裏にはややひと波乱もあったとか。それは教区長がバッハに喧嘩については監督不行き届きを指摘、そして「ところでおまえはコラール伴奏はするけれど、多声音楽の伴奏は何故しないのか」と。それに対してバッハは「もし音楽監督がいてくれたらやらないでもない」との返答。それ以来教区長はその事に触れなかったとの事。 実は教会の建築上、3階構造ではオルガンは最上階、聖歌隊の入る余地がなく2階で歌うために込入った多声音楽の場合はかなりすぐれた音楽監督(指揮)が必要。その現状はお互いが全く見えず響きだけを頼っての演奏をしていたのです。 天才・秀才は生意気な言動で(当人はそう思っていないでしょう)教師、上司に煙たがられる事はいつの世でもあることですね。そんなクラスメイト、職場仲間が時々居るのではないかしら。。 参考書籍「バッハの風景」 樋口隆一 小学館 さて、今日ご紹介します作品をはじめ、初期のカンタータはどれもとても優れているといわれています。196番は結婚式のためのカンタータとして知られていて、マリアバルバラ(最初の妻)の叔母の結婚式で演奏しました。
今日の1曲◇バッハ◇教会カンタータ147番:主よ、人の望みの喜びを 演奏会・アルバムについてのお問い合わせこちら
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Last updated
February 20, 2011 07:12:16 PM
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