カテゴリ:クラシック音楽
先日、ピアノトリオの演奏会を来年させて頂くお話を頂きました。プログラムの最初は軽快なモーツアルトから、という事になり今日はその作品からのご紹介です。
モーツアルトのピアノトリオは全6曲あり、どの曲も晩年数年間で作られています。ウィーン時代( 25歳~32歳)の最後の年でもあります。特に最後の3曲は1788年に、ブフベルク家(ウィーンの裕福で音楽好きの織物商)での小さな音楽会のために作られたのであろうとされています。 ウィーン時代を簡単に辿ると、1781年に一度ザルツブルグに戻るのですが、ザルツブルグ大司教コロレドと衝突し、解雇され、ザルツブルクを出てそのままウィーンに定住を決意します。以降、フリーの音楽家として演奏会、オペラの作曲、レッスン、楽譜の出版などで生計を立てました。 翌1782年、 父の反対を押し切りコンスタンツェ・ヴェーバーと結婚、このころから自ら主催の演奏会用にピアノ協奏曲の作曲が相次ぎます。 1785年には弦楽四重奏曲集をハイドンに献呈(「ハイドン・セット」)、父親はハイドンから息子の才能について賛辞を受けます。また、ハイドンは2年後の1787年、プラハからのオペラ・ブッファの作曲依頼に対して、自分の代わりにモーツァルトを推薦しました。 ハイドンの言葉 「有力者が彼の才能を理解できるのなら、多くの国々がこの宝石を自国の頑固な城壁のなかに持ち込もうとして競うだろう」 1786年5月1日、オペラ『フィガロの結婚』K.492をブルク劇場で初演し、翌年プラハで大ヒットしたためプラハを訪問します。 5月には父・レオポルトが死去。10月には、新作の作曲依頼を受け、オペラ『ドン・ジョヴァンニ』K.527を作曲し、プラハエステート劇場で初演。モーツァルト自らが指揮をとります プラハで上演した『ドン・ジョヴァンニ』の報酬が同地から送金されるのが遅れていたこともあり、この頃からモーツァルトのキャッシュ・フローに狂いが生じ始めました。即ち、家計の出金に対する現金入金不足です。理由の一つには予約演奏会や貴族邸での個人演奏会の開催回数が激減し(オスマン帝国との開戦により主だった貴族が戦地に赴いたり、領地に戻ったりしたこともあり、モーツァルトの演奏会はほとんど開催されていない)これに伴う現金収入がら激減したのです。 6月には友人でフリーメイソンの会員であったミヒャエル・ブフベルクに現存する最初の借金依頼の手紙が書かれています。 *ミヒャエル・ブフベルク:1741年生まれ。ウィーンの裕福で音楽好きの織物商。 《最愛の同士よ!あなたの真の友情と兄弟愛にすがって、厚かましくもあなたの絶大なる御好意をお願いします。あなたには、まだ8ドゥカーテンを借りています。いまのところ、それをお返しすることができない状態にあるのに加えて、さらに、あなたを深く信頼するあまり、ほんの来週まで(その時にはカジノで私の演奏会が始まるので)、100フローリンを融通して助けてくださるよう、あえてお願いする次第です。その時までには、必ず予約金が手に入りますし、そうなればこの上なく熱い感謝の念をこめて136フローリンをきわめて容易にお返しできるでしょう・・(略)あなたのこの上なく献身的同士 W.A.モーツァルト》 ブフベルクに宛てたこの種借金依頼の手紙は1788年6月に3通、7月初めに1通、合計4通、1789年にも同じく4通、90年には9通もの手紙がかかれ、91年最後の年にも3通、総計20通もの手紙が書かれたのです。 そんな中でもモーツアルトの創作意欲が衰えることがなく、6月から8月にかけて3大交響曲を書き上げました。 さて、このモーツアルトのピアノトリオ、弦の仲間がいたら形だけでも自分も弾けるかもしれないような簡素さでありますが、実は大変深い表情があり、そう簡単でもないと知ります。ピアノの部分についてみると、ソナタ等では低音域の表現にも神経を行き渡らせなければならない分、表現に限りがあるのに対して、ピアノトリオでは、足元はすべてチェロにゆだねて、ピアノとヴァイオリンが自由闊達、気ままに舞踏しているような、そんな感じを受けます。ピアノトリオの形はコミュニケーションの面白さが大きく拡がるアンサンブルの最も洗練された形ではないでしょうか。 モーツアルト◇Piano Trio in G Major , KV 564 第1楽章 私自身の演奏会については11月10日(土)ピアノコンサート~名曲の旅~も予定しています。 尚、現在youtubeには87曲載せています お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
July 15, 2012 01:53:11 PM
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