「ルロイ修道士」の言葉
アメリカでとても悲惨な事件が起きました。突然失わなくてもいい命が失われてしまったことは、本当に胸が痛く、犯人に対する怒りがこみ上げてきます。ニュースを見ていると、犯人と同じ国籍である韓国人の留学生が差別を避けるために大学の寮を出て行ってしまったり、アメリカに留学予定の学生が留学自体を取りやめにしようとしていたり、二次災害というべき問題が起きているようです。私は今、学習塾で文系科目を教えていますが、中学校3年生の国語の教科書に「握手」という井上ひさしさんの作品があります。その話の中心的な人物に「ルロイ修道士」という人がいます。その人のセリフにとても印象深いものがあるんです。(テキストを校舎に置いてきてしまったので記憶で書きます。原文ではありません)戦争中に、ルロイ修道士は日本人からひどい仕打ちを受けました。それを知った主人公である「わたし」(ルロイ修道士が開いた児童施設の教え子)はルロイ修道士に謝ります。「日本人は先生にひどいことをしました。申し訳ありません。」 と。それを聞いたルロイ修道士は、「総理大臣のようなことを言ってはいけません。日本人とかアメリカ人とかカナダ人とか、 そういったものがあると思ってはいけないのです。」と「わたし」をたしなめました。 アメリカでの事件を知って、さらに韓国人だっていうだけで被害が懸念されるというニュースを見て、このルロイ修道士の言葉がドンと私の心に響いてきました。私達はどうしても「○○人」ということにこだわってしまいます。去年あったワールドカップ。もともとサッカーにはほとんど興味のない私でも「日本人だから」サッカーを見ていました。つい先日のフィギュアスケートでも、やっぱり「日本人だから」真央ちゃんを応援していたし、ライバルだった他の国の選手が失敗すると「かわいそう」と思いつつもちょっとホッとしたり…ルロイ修道士はそれが間違っている、と言っているのでしょう。「○○人」ではなくて、私達は一人一人の人間なのだと。一人一人の人間として扱われるべきだし、尊重されるべきだと。だから悪いことを実際したわけでもない「わたし」が「日本人だから」ルロイ修道士に謝罪したことを彼はたしなめたのです。 自分の生まれた国を愛する。それは当然の感情なのかもしれません。でもそれは、自分の生まれた国ではない国を憎むこととイコールではないでしょう。いくつものミラクルが起こって、私達は同じ時期に、同じ「地球」という星に生まれた。一つ一つの命がミラクルなんだと思います。そんなふうに思えたら、戦争も、悲惨な事件もまったくない世の中になるんだろうなぁ。 こういう悲惨な事件を見るたび、私にとってとても大切だった一つの命を思い、胸が痛くなります。ニュースとしてテレビに写ることはないけれど、私と同じように大切な命を失って涙を流して、つらい、本当につらい思いを抱えて生きていく人たち……争う人、事件を起こす人はなぜそこまで考えが至らないんだろう……