阿蘭陀西鶴
よい本を読んだので紹介したいと思います。それは『阿蘭陀西鶴』(朝井まかて著、講談社)です。この本を読んでいて、学校帰りによくした遊びを思い出しました。田んぼのあぜ道で立ち止まり、前景をしっかり記憶したのちに目をつぶり歩き出します。同様にアスファルトの農道でも。たいていは少し歩いて目を開けてしまいます。目をつぶっていると、UFOやヒバゴン(雪男の一種)やツチノコの恐怖にかられます。宇宙人に拉致されるか、大型類人猿に襲われるか、ビール瓶のようなヘビを踏んでしまうかの三択です。『木曜スペシャル』や類似のバラエティーをよく見た結果です。蛍光灯が点灯する間が惜しいので暗いまま部屋に入ろうとすると、足に硬いものが当たって転倒。明るくしてみると入り口になぜか扇風機が置いてあった。山奥のテントの中で夜になると、目を開けているのか閉じているのか、わかないほどの暗さ。暗くなって釣りバリに糸が結べない。目をつぶって階段を下りると思いがけず床に到達していたり、もう一段あったり。こんな感想をもちました。とても楽しい本なので、ぜひ!おしまい※「あんたのことが可愛いて自慢でたまらんのは、傍で見ててもようわかる。ほんの数日、一緒におるだけでな。けど、それがあんたにはちっとも伝わってないのやもの」「肝心なことには心を閉ざしているやないかと言うてるだけや」(『阿蘭陀西鶴』、朝井まかて著、講談社、p.108)(p.108からの引用です。写し間違いがあったらごめんなさい)このページのセリフがこの本のテーマだと思います。西鶴は俳句や草子にはたくさんの言葉を使います。でも、自分の娘にはあまりよい言葉を使わなかったようです。気持ちは言葉にしないと伝わりません。ワラジカツドンが食べたければ「ワラジカツドンお願いします」とはっきり言わなければ、いつまでたっても出てこないのと同じ原理です。しかしながら、そうした理屈はわかっちゃいるけど口から出ないのが楽しいところです。なにもかも感情をたれ流すのより、心の壁の厚みや種類の変化を味わうほうが小説的です。(壁だって石灰質や耐火レンガ、防音、杉板などいろいろあるじゃん)この小説は感情が邪魔して口にできないこと、自分でも気がつかないので言葉にならない気持ちといった場面がたくさん出てきます。(何もかも自分や他人の考えていることを明晰に分析して言葉にしてしまう人物。たぶんそういう人は、行く先々でもめ事ばかりおこしちゃうんだろうなあ。)※農業従事者のところで生まれた人は自動的に農業従事者として一生を送る。商工業や武家も同じ。自分にあった職業や自分を探す必要もない社会。こういう時代に俳句を作る、小説を書くというのはどういう身分の人なのだろうか、という疑問があります。想像するに『鬼平犯科帳』に出てくる犯罪者たちのようなアウトロー的な人たち。もしくは生きるために手を動かさないでもいられる立場の人。だったのかなあ。 ※暗くてもハリに糸が結べれば楽しい。スマホにもライト付きの拡大鏡的な機能がほしいところ。スマホのライトで手元を照らしつつ、カメラで撮影し、画面に拡大された映像が出てくる。これがあれば、夕暮れの毛ばり釣りに有効活用できると思う。