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埋もれ火のアンソロジー

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2010.05.18
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カテゴリ:あの頃の話
北玉時代2

大鵬と柏戸を追ってきた力士がいた。
(詳しく調べず、ぼくの記憶だけで書いているから、間違っていたらごめんね)

佐田の山と栃の海のふたりだった。(と、ぼくは感じていた)
まずこの4人を検索してみます。

大鵬1940年5月29日北海道生まれ。第48代横綱。

柏戸1938年11月29日山形県生まれ。第47代横綱。

佐田の山1938年2月18日長崎県生まれ。第50代横綱。

栃ノ海1938年3月13日青森生まれ。第49代横綱。

やはりこの4人の生年月日を並べて書いてみて
やっと4人の関係像がより明確になってきた。

生まれた順は、佐田の山ー栃ノ海ー柏戸ー大鵬となる。
佐田の山と栃の海は同級生
柏戸はひとつ学年は下になる。
柏戸の2学年下に大鵬がいる。

栃ノ海・佐田の山・玉乃海・北の富士

で、横綱の順は
柏戸・大鵬(同時昇進)-栃の海ー佐田の山となる。
ぼくがこの4人が激しくぶつかる姿を見てきたんだ。
で、
大関にも強いというか個性の強いのがいた。
北葉山とかもう大鵬にだけ闘志むきだし力士だった。

しかし優勝回数が物語るように
大鵬の強さはぬきんでていたし、
「型のないのが大鵬の型」といわれるように
相手にあわせた取り口で優勝回数を重ねていった。

大鵬が超苦手にしたのは栃ノ海だったそうだ。
と、思っていたら
佐田の山も栃ノ海もたしか
横綱時代は短かったように記憶している。

下のほうからすごい勢力が力をつけてきたのだ。
記憶に鮮やかに残っているのは
初入幕の清国が優勝したんじゃなかったかな?
あれはセンセイショナルな出来事だったから記憶に間違いないと思う。

検索させてね。

清国1941年11月20日秋田県生まれ。最高位大関。大鵬と同期入門。
清国のぼくの記憶は大きく間違っていました。
訂正するため、引用させていただきます。
1963年5月場所に十両に昇進、3場所で十両を突破して同年11月場所に入幕を果たした。新入幕の翌場所の1964年1月場所は初日から14連勝、横綱大鵬とともに勝ち放し、同期生の優勝決定戦かと騒がれた。しかし、千秋楽に関脇・大豪に当てられて敗れ、優勝はならなかった。この活躍から北の富士・若見山と「若手三羽烏」と称された。
優勝はしていなかった・・・
だが、ここのところとがごちゃごちゃになっていたのかもしれない。
新大関で迎えた1969年7月場所では千秋楽に大鵬との相星決戦を制して12勝を挙げ優勝決定戦に進出、藤ノ川を破り初優勝を果たした。新大関の優勝は1949年10月場所の千代ノ山以来の快挙、この場所柏戸が引退して大鵬の一人横綱となっていただけに一気に横綱昇進の絶好の好機となったが、翌9月場所2日目の麒麟児戦(後の大関・大麒麟)で首を故障。それが結果的には大関どまりになる原因の一つになってしまった。

北の富士1942年3月28日北海道生まれ。第52代横綱。

玉乃島(玉の海)1944年2月5日生まれ。第51代横綱。

なんとなく清国と北の富士の二大勢力が下からやってきたという
印象が強かったんだ。
玉乃海の存在はあまりぼくは気にしていなかったが・・・
ふたりが横綱となり
「北玉時代」とわれる時代に突入するのだが
玉乃海は突然の術後に死亡というニュースが流れたのが・・・
玉の海は全勝優勝を飾った1971年7月場所前後に虫垂炎に罹患し、夏巡業を途中で休場するなど容態が芳しくなく早急な手術が必要な状態だった。しかし横綱としての責任感と、同年9月場所後に大鵬の引退相撲が控えており、本場所を休場すれば大鵬の引退相撲にも出場できなくなる為、虫垂炎の痛みを薬で散らしながら9月場所に強行出場した。この場所肋骨を折るアクシデントもあったが、12勝を挙げた。しかしこれが結果として玉の海の生命を縮めることとなった。
10月2日の大鵬引退相撲、翌3日の淺瀬川引退相撲に出場後、直ちに東京都港区の虎の門病院に入院し、虫垂炎の手術を受けた。その時点では経過は順調で、10月12日に退院する予定であった。その時点では11月場所の出場に関しては未定であったこともあり、本人も「退院後すぐに相撲は取れないが、(巡業先では)土俵下から挨拶でもしよう。」と親しい人たちには伝えていたという。
ところが10月11日の朝、起床して洗顔を終え、ベッドに戻ったところ、胸の苦しさを訴えその場に倒れた。そのとき既にチアノーゼ反応が起きており顔は真っ青だったという。急ぎ医師団の懸命な治療が行われ、一時は快方しかけたがその甲斐もなく午前11時30分に死亡が確認された。享年28(満27歳没)。
玉の海の直接の死因は虫垂炎手術後に併発した急性冠不全(右肺動脈幹血栓症、現在の言い方では術後の肺血栓)であった。玉の海のような力士体型(肥満体)の人間が手術後に血栓症を発症しやすいのは現代では常識であるが、その当時はまだあまり知られておらず、十分な予防策も取られていなかったものと考えられる。これから全盛期を迎えようとするのは確実だったため誰もがその死を惜しんだ。
最大のライバルであり親友でもあった北の富士は巡業先の岐阜県羽島市で「玉の海さんが亡くなりましたよ」との一報を聞き、「解説の玉の海さんが亡くなったのか?」と思ったと云う。しかし亡くなった人物が横綱の玉の海であるという事実が判り、その場で号泣した。


玉の海VS北の富士

北玉時代1










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Last updated  2010.05.18 02:02:31
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