カテゴリ:雑念
改めて親を観察すると
10年前の母親とすっかり変わったことに気付く つくづく思うが こうして 老いた親の姿を見ることが出来ることも 幸せなことかもしれない。 本当は、こんな老いた姿を見たくなかった、 という気持ちもどっかにある いつまでも、やんちゃでカラ元気な母親の姿を見ていたかった、というのも本音だから 抵抗する気持ちからなかなか抜けれないのもある でも 父親のこんな姿も見てみたかったというのも本音 親の老いた姿は 私に、将来の自分のことを想像させてくれる。 60代の頃は、まだ50代の母親とあまり変わらず スピーディーだった だから、何も考えなかった 本当に死ぬ直前まで 働いていて遊んでいて そのまま、ポックリ逝ってしまうのかも なんて思うことくらい。 私が中学生の頃に亡くなった祖母の姿に急速に 母親は近づいてる 多分、本人は気付いてないかもしれない (本人はまだまだ元気なつもりらしく 相変わらず、毎晩飲むビールを楽しみにしている) 私もいずれにか 少しづつ色褪せ 体が分解していくような 小さな疲労が思いもよらないほどの過労感になったり そんなときがきっとやってくる 崩れていく姿を後につく人たちに見せる ということは それも 「伝える」という手法になり代わる 後に続く人たちは母の老いる姿を見て 何かを学ぶ 今、私に残された人生と 母が残してる人生は同じ秤にはかけられない 濃厚な時間をどのように過ごすかは 大きな課題だと思う 自分に置き換えて考えてみる そんな時間を与えてくれたことに感謝する そして 今日一日が終わったことに二人で乾杯した。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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