Tibet massacre(チベット大虐殺
未だ今回の大虐殺を「暴動」と表記しているのは日本のマスコミくらいなもんで。Tibet massacre more than 500 killed, 10,000 injured a massive violation of human rights by Chinaいつもは何かというと「欧米では」「諸外国では」とのたまうマスコミはこと対支那となると立場がころりと代るらしい。衛星画像があるに決まってると思ってきたがやはり出て来たけれど、さて今回のチベット大虐殺に対して日本政府は公式に何かできるかというと現実的には首相ではなく町村官房長官が会見で注視すると述べるに留まるのが精一杯だろう。何故なら日中平和条約締結で日本は公式にはその時点の支那を承認していると見做されるわけで、所謂一つの中国もそれに根ざしている。だから30数年前のあのニクソン外交と田中首相の対支那路線-大陸派の決定-は21世紀になって禍根が表面化している。ただ、あの当時は当時の事情もあったのだというのは同情でなくとも理解はせねばならず、今後日本は国際条約は遵守するのだという憲法にも謳われている条項をどうやってかいくぐりながら支那とそして国際社会を渡っていくか、それは民主主義国であるからには日本国民の意思も問われている。だから私は福田内閣だけを責める論調には組みしない。感情としては極めて激しているけれどこれは国家間、それも対支那だけではない複層になっている国際社会のコンセンサスと日本の法治国家としての根幹、憲法に準ずるかどうかという話でもあるから。ただ、民主主義国家であるということは我々が意思決定の結果を国政に反映できる可能性はまだあるということでもある。そんな悠長なこと言ってる場合かと私の感情は煮えてはいるが、自国で全てを賄えない以上我々にできるのは国会期間中に支那詣でをするような政党を二度と選ばないことから始めねばならない。もしくは特別難民としてチベットの人々を保護できるかどうかそれも検討しなければならないだろう。私が何度も「法治国家の国民であるということはやせ我慢、もしくは時には歯を食いしばらなければならないこともある」と書いてきたのはこういう事でもある。法治-法がありそれは我々を守りはするが、しかしそれは権利だけの片務ではない。虐殺被害者達に武器弾薬を配るような真似はできないということでもある。しかし情報機器を何とかして配るのならこれはまた別の話にはなるけれどね。現在の法を破らずに何とか出来そうな方策を考えるのなら、それは日本が影響力をある程度行使できるインドやその他チベットと地続きにある国家群を通して難民保護、もしくは情報遮断を緩和する方法を考えた方が建設的だろう。こうして呑気にキーボードを打っている間にもチベットだけではなく東トルキスタン-ウイグル-の人たちも同じ目に遭っているわけだが。ここで脊髄反射して感情のみで喚くとそれは左巻き花畑と同じ穴の狢に陥ってしまう。喚きたいですよ、本当は。支那なんかぶっ壊れてしまえと叫びたいのは山々。日本政府が厳しい態度を支那に示すのも期待はしている。胡錦濤の来日が遅れるどころか来なくて結構と。胡錦濤が中央に名を挙げたきっかけがチベットへの戒厳令だと思えば尚更で。今週は民主党の無茶がもろに市場為替に波及するだろう。実体経済はさほど悪くもないのにね。そして来週はいよいよマスコミが隠してきた「暫定税率撤廃は減税だけじゃない」正体が明るみに出てきて碌に自分で調べようともしなかった連中が騒ぎ始めるのも目に見えている。民主主義国の国民というのは結構ハードルが高いんですわ。ボケっと座ってTV見ただけの知識や脊髄反射した挙句選挙の本質を見失った投票行為-お仕置きだのお灸だの-は全部てめえに返って来るんだ。20年前にやらかした間違いをまた繰り返したくて仕方がないと思われてもやむを得ない。腹の据わってない連中に限って政治だけを責めたがるが、そりゃお前民主主義だもの自分達の選択の結果じゃねえかと。いいかい、選挙は選択だ。どうしようもない究極の選択を強いられても身もだえしながら選ばなきゃならない。責めるくらいなら現実的に具体的にどうすりゃいいのか考え発信しなきゃ先進国の国民とは言えないと思うよ。