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カテゴリ:本の感想 作家別-な行
庭・池・電燈付二階屋。汽車駅・銭湯近接。四季折々、草・花・鳥・獣・仔竜・小鬼・ 河童・人魚・竹精・桜鬼・聖母・亡友等々々出没数多…本書は、百年まえ、天地自然の 「気」たちと、文明の進歩とやらに今ひとつ棹さしかねてる新米精神労働者の 「私」=綿貫征四郎と、庭つき池つき電燈つき二階屋との、のびやかな交歓の記録である。 ―綿貫征四郎の随筆「烏〓苺記(やぶがらしのき)」を巻末に収録。 49冊目 ぜいぜい 目標まで後6冊 読み切れるのか? 時間を見つければ読めるとは思っていても最近トーンダウン気味。がんばらなきゃ。 昨日本屋をのぞくと梨木香歩氏の「西の魔女が死んだ」が山積み 「なぜ?」と思ったら実写映画化だそうです。 とても素敵な作品なので良い映画になるといいな そして今作が私の梨木作品 3冊目となります。 村田エフェンディ滞土録の最後にでてきた不思議な家の物語(教えてもらいました) 主人公 綿貫征四郎は学生時代に亡くなった親友高堂の実家に住んでいます。 高堂の父親が娘の所に隠居するのを機に家の守りをしてくれないかと頼まれ、 うれない物書きの彼は渡りに船と快く承諾したのがきっかけでした。 親友に高堂は湖でボートをこいでいて行方不明になったのですが なんと その家の床の間の水辺を描いた掛け軸の中からボートを漕いで現れます。 そこでの綿貫の一声 ー どうした高堂。 逝ってしまったのではなかったのか。 答える高堂 ーなに、雨に紛れて漕いできたのだ。 といったやりとりで 巻末の解説でも触れていますが 綿貫という人物は 生きている時代、場所、空気、自然、あらゆるものを 単に「受け入れる」ことにあるのがすんなりと笑いをもって納得させられます。 ですから 庭のさるすべりが綿貫に恋いこがれて懸想しようが(さすがに受け入れはしませんが)庭の池に浮いていた皿が干上がった河童(ご安心を、水分をあたえればあら不思議 無事に河童に戻ります。)だと聞かされても 驚きはしても「受け入れる」日々の生活 都忘れ、白木連、ダァリヤ などなど庭や山の植物をモチーフいえいえそのものが 現れての摩訶不思議なできごとが時におだやかに 時に騒々しくつむがれていきます。 そして そこらかしこに にやり としてしまう言葉がちりばめられています。 村田~では異国における異教徒の神々とのけんか通して、 家守~では もう今の世では失われつつある自然と人間の世界の ひいては あの世とこの世の 相いれない存在ながらそれを認めてしまうすべを 語られているような気がします。 相手を理解できないことを認めた上でその存在を受け止める。そしてそれを 相手にも望んでいく 決して力わざや強制ではなく そういった関係を結べるのが 対等ということではないかなとも思います。 しかしながら 鉢植えはおろか庭は雑草のびまくり著しく近所の美観をそこなわせている私 各章のタイトルである植物が、、、わかりません。 日頃から自然を愛でていれば私のような焦燥感どころか ふくいくたる花の香りなんかを思い起こしながら読む事ができるのだろうなと ちと 哀しくなりました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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