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湖の彼岸 -向こう岸の街、水面に映った社会、二重写しの自分-

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2006年02月27日
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カテゴリ:政治・社会学文献
第五章 国民国家システムの動揺
(1)「民族自決」「国民国家」というシステム


市民革命と国民国家の形成---第一のナショナリズムの波


 近代国家と近代国民(民族)の起源は、1648年のウェストファリア条約によって国際的に認知された絶対主義国家にあるとされる。この前後からいわゆる国王が主権を独占する絶対主義国家が成長した。それらの国々は軍事国家でもあり、かつての封建時代とは異なり国王は直属の官僚と軍隊を所有し他の国家とせめぎあっていた、そして、国家の防衛、経済活動の管理、徴税活動の円滑化のために、軍事・行政組織が整備された中央集権的な近代国家が形成されていくことになる。
 西ヨーロッパ、とくにイギリスとフランスでは、封建諸侯の群雄割拠の時代の後、地域全体を統合する巨大な国王主権が成立し、領土を一元的に支配しようとする領域国家が早くより生み出されていた。

     *

 国民は絶対主義国家の発展の過程で徐々に形成された……絶対主義支配のもとで、地域的、文化的、言語的な違いをもっていた下位集団も徐々に文化・言語的に同質化して、一つの文化的同質集団としての連帯意識が生まれるとともに、運命共同体的な帰属意識や祖国愛も生まれるのである。意識的な国家形成が民族形成を促すことになったのである。

     *

 こうした近代国家の形成によって、統一された国家内の人口集団が一つにまとめあげられて生まれたのが民族(ネイション、国民)である。ただし、絶対主義国家の時代では、国王の国家統治という視点から、文化・言語的統合が必要とされたものの、国王の統治は直接的なものではなく、封建的群雄割拠時代の特権的身分の名残を反映して、絶対王政のもとで貴族に位置づけられた中間勢力(旧封建諸侯)が存在し、間接統治が残っていた。臣民として位置づけられた一般の人々の国王や国家への帰属意識は弱く識字率も低いので、地域的な文化・言語的多様性が多分に残っており、民族意識は近代に比べて、まだ弱いものだった。さらに王侯貴族階級は国境を越えた共通なコスモポリタン文化を発展させており、領国内の文化的一体性は階級格差によって分断されており、階級格差のほうがより大きかったのである。A・スミスは、この時代を水平的なエスニシティの併存時代と考えているほどである。しかし、絶対主義国家の安定的支配のもと、民族形成は徐々に進んでいった。


リベラルな国民国家

 こうした安定的な領域支配のもとで民族形成が進む中で、資本主義経済が発達し新興ブルジョワジーが台頭すると、経済活動の発展のために領域内の各種規制や障壁と貴族的特権階級を打倒せよという要求が強まった。その要求を正当化したのが啓蒙主義である。人間の持つ生得的自由と平等の実現を求めて身分的特権階級の廃止と自由な政治参加が要求されると同時に、人民主権概念と社会契約観念が発達して、王権神授説などを否定する急進的な人民主権論が台頭し始めた。王権によってこの動きが抑圧されると、市民革命が発生して特権的身分階級と絶対王政が廃止される。この結果、一般市民の意思を反映した議会制民主主義が成立し、国家の主人は国王ではな平等な市民によって構成されるという近代国家が生まれる。

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 人民主権国家では政治決定に加われる人民(市民)とは誰なのか、そもそも国民とは誰なのかということが問題になってくる。つまり、近代国民国家では、主権が人民に移るのと同時に、政治的決定に参加できる人民(市民)の資格と国家の境界が厳格に規定される必要が生じる。その結果、主権者である市民には自由・平等、民主主義の政治的価値観の共有と、文化・言語的同質性が強く要求されるようになる。


エスニックな民族(国民)へ---第二のナショナリズムの波

 近代国家は合理的な一元的統治体制を前提とし、中間的な貴族・領主勢力を排除して市民の直接管理を目指した……絶対主義王政の成立が国内人口の同質化を進める契機となり民族形成が進んだ……その動きは市民革命を経た後に、産業化・資本主義の発展による工業化が進む産業革命のなかでさらに展開する。

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 近代国民国家は、工業化・資本主義の効率的発展と近代国民国家の行政管理効率化、そして軍事防衛の観点から、国民の文化・言語的同質化と祖国愛の強化を要請した

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 フランス革命は、旧体制の破壊と国民国家の成立を求めていた。その革命理念はフランス国家内にのみ適用されるのではなく普遍的なものだと思われていた。その結果、周辺諸国民を旧体制から解放することもフランス人の使命と認識され、ナポレオンによるヨーロッパ征服という事態が生じた。周辺諸国の中には、ナポレオンの征服解放戦争として歓迎するものもあったが、人民主権を求めるものにとって、それはフランスによる支配と抑圧を意味していた。そのためドイツやイタリアでは、それまで同じ文化・言語をもつ集団でありながら、個々の領邦国家に分かれて群雄割拠していたのでは、フランスに対抗できないとの意識が強まり、ドイツ人やイタリア人の統合が叫ばれるようになったのである。

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 啓蒙主義と近代合理主義に反発するロマン主義的色彩を強めていくのである。……フランスのルナンが強調したリベラルな民族であるナシオン<nation>から、フィヒテのいう「ドイツ的」民族フォルク<Volk>への質的変化でもある。

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 同質的文化と共通言語を持つ民族が国民国家を形成するとの民族自決観念が発達し、国民(民族)国家の主体となる民族に属する人々には、市民権国籍が与えられて市民とみなされ、その国民国家の内部において政治的自由と平等を享受できるという、国民国家システムが確立した。


旧植民地の独立---第三のナショナリズムの波

 第二のナショナリズムの波は東欧バルカン地域の民族運動を触発し、第一次世界大戦の引き金となり諸帝国を没落させた。さらに、第一次世界大戦後に、民族自決をベルサイユ条約(1919年)で国際法上の権利として認知させる事態を生んだ。これが、第二次世界大戦後の国際連合にも採用された結果、植民地が民族自決を掲げて民族解放闘争を繰り広げることになり、その多くが独立したのである。……この第三の波は文化・言語の同質性を強調するエスニック・ナショナリズムの性格が強く、国民国家は同質的であるべきだとの観念をさらに強めていた。


エスノ・ナショナリズム---第四のナショナリズムの波

 第四のナショナリズムは、第三の波同様に第二の波の世界的普及の一局面だが、既に国民国家が確立していると思われた先進諸国や安定し始めた開発途上国の内部に取り込まれてマイノリティ集団に影響している点が重要である。第四の波は1960年代後半から先進諸国内の民族分離・自立運動を生み出しただけではなく、1980年代後半から90年代にかけては、旧チェコスロバキア旧ソ連旧ユーゴスラビアなどの旧社会主義国内の民族共和国の分離独立運動にも飛び火し、社会主義陣営を崩壊させた

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 第四の波は、既存の国民国家(連邦国家も含む)内で、かつては同化を強いられマイノリティと位置づけられていた人々に、既成の国民国家による少数民族抑圧と主流ナショナリズムへの挑戦を生み出した。同質的国民国家理念の動揺を引き起こすものである。


民族自決原理と人権

 現代の人権概念は、第二次世界大戦後の国連の成立とともに普遍的価値として確立した。当初は、個人の政治的権利(第一世代の人権)経済・社会的権利(第二世代の人権)のみを強調するものであったが、特定民族集団の文化・言語の発展の権利を含む集団的発展の権利(第三世代の人権)を強調する方向へと変化しつつグローバル化してきた。……今後も、ナショナリズム民族自決観念、そして人権観念のグローバリゼーションが、必然的に既存の国民国家の内部に多民族国家多文化社会化を生み出していくことはいうまでもない。








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最終更新日  2007年01月10日 00時31分18秒
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