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カテゴリ:政治・社会学文献
終章からの引用を中心にしたまとめ
大航海時代に誕生したひとつのまなざし。15世紀から18世紀にかけて徐々に組織されていったこの世界に拡がるまなざしは、自己を純粋にまなざす主体として、まなざされる他者を疎外し/他者から疎外され、この間隙に世界を規律・訓練する透明で抽象的な視界のひろがりを成立させていった。このまなざしの象徴が博覧会である。博覧会は本書で三つの視点から考察される。帝国主義のプロパガンダ装置としての博覧会、消費文化の広告装置としての博覧会、大衆娯楽的な見物としての博覧会である。どの博覧会も、大衆を強力に動員する「装置」として機能している。「博覧会は革命する群衆を消費する群衆に変える」としても、そこでの政治的な意図は、国家権力や資本主義のあからさまな顕示としてではなく、日常的な「まなざし」にまで深く浸透している。 フーコーによるなら、<権力>とは、特定の国において国民の帰属や服従を保証する機関の総称でも、特定の支配集団による社会全域に対する影響力のことでもない。それはむしろ、「無数の力関係であり、それらが行使される領域に内在的」であるような作用の総体である。それは、「あらゆる瞬間に、あらゆる地点で、というかむしろ、一つの点から他の点への関係のあるところならどこにでも発生する」のであり、結局のところ「特定の社会において、錯綜した戦略的状況に与えられる名称なのである」(『知への意志』)。筆者はこれを、「権力の微分的な作用」とよぶ。 世界をディスプレイされる記号の秩序として眺めていくまなざしは、巨大スペクタルを求める大衆の欲望であり、その欲望は微分されているために、どのように構造化されているかを微細に調べなくてはならない。ここに、「政治学が取りこぼした政治学」としての社会学がある。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年04月13日 23時51分52秒
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