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湖の彼岸 -向こう岸の街、水面に映った社会、二重写しの自分-

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2006年07月19日
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カテゴリ:政治・社会学文献
by Soeya Yoshihide



吉田路線

吉田路線とは、吉田茂が選択した憲法9条(46年)と日米安保関係(51年)を二つの柱とする戦後日本外交の基本路線のことをいう。

日本にとっての不幸は、戦後日本外交の基軸となった憲法9条と日米安保条約を、全く異なった国際政治情勢下(冷戦以前、以後)でそれぞれに不可避のものとして選択せざるを得なかったことにあった。

憲法9条は、冷戦発生以前の、中国をアジアにおける国際秩序の安定勢力として育てようとする秩序構想のなかでの戦後日本の姿を象徴的に示すものであった。それに対して日米安保条約は、冷戦をアジアに拡大した朝鮮戦争の最中に締結された。国際政治の論理との接点において、吉田路線の土台はねじれていたのである。


1955年体制

吉田茂の後に首相を務めた鳩山一郎と岸信介は、ともに吉田路線には違和感を持っていた。

「ポスト吉田」の1954年から1955年にかけての日本政治は、吉田路線をめぐる保守の分裂が深刻化する空気に包まれながらも、保守合同で幕を閉じるという展開を経て、1955年体制を生み出した。吉田路線は1955年体制にさまざまなねじれをもたらしたが、1955年体制の下での吉田路線の定着とは、そのねじれが固定化したものに他ならなかったのである。


吉田路線の定着

憲法9条日米安保条約を二本柱とする吉田路線は、しばしば外交的自立の衝動を孕んだ政治的攻撃に晒されてきた。しかし、1955年体制の特徴は、自立を求めるナショナリズムが、イデオロギー的に左右に分裂していたことにあった。そして、そこにおいて右が求める自立も、左が唱える自立も、戦後日本の国家戦略の基礎には成り得なかった。その結果、中庸の吉田路線の有用性が、試行錯誤を繰り返す中でほとんど消去法的に確認されてきた。その間、改憲は政治的にタブーとなり、本質的には対米自立の衝動に突き動かされる外交が、結局は日米安保関係を前提とする枠組みに引き戻されることになった。1960年にようやく成立した日米安保条約の改定は、そのことを最も明瞭に示した。

消去法により存立の基盤が確認されてきた吉田路線を、現実路線として体系化する試みは、1960年代の高度成長と先進国の仲間入りという裏付けを得て、ようやく1970年代に始まった。1960年代後半の高坂正堯(こうさかまさたか)による吉田茂再評価は、その重要な知的基盤を提供した。その試みは、基盤的防衛力の構想を柱とする「防衛計画の大綱」、および日本の防衛を中心として日米安保協力の具体的あり方を示した「日米防衛協力のための指針(ガイドライン)」を生んだ。それらは、憲法9条を前提とする防衛政策と日米安保関係の間に政策上の連関を見出す作業であり、その両者を結合させることで独立心を犠牲にした吉田路線の陥穽を埋めようとする試みであった。






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最終更新日  2007年01月10日 00時25分29秒
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