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湖の彼岸 -向こう岸の街、水面に映った社会、二重写しの自分-

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2006年07月19日
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カテゴリ:政治・社会学文献
by Soeya Yoshihide



吉田ドクトリンを準備した1960年代

岸が安保条約の改定で日本の独立心を満たそうとしたことは、伝統的国家主義者が吉田の国家理性に引き寄せられたことを意味していた。

池田の経済中心主義路線は、その前提の上に可能になったものであった。池田は、吉田路線での従属の構造には目をつぶる(ねじれに蓋をする)ことで、経済面での日本の自立に当面のエネルギーを傾注したのである。しかし、そこでの経済と安全保障の乖離は放置された。

対照的に佐藤は、その乖離を埋めようとした。核兵器への関心をあれだけ明確にアメリカに対して表明しようとしたことは、その意欲の表れであった。結局佐藤も、(1)沖縄返還による対米自主の実現、(2)非核三原則の表明、そして(3)佐藤・ニクソン共同声明での韓国条項と台湾条項に見られるように、吉田路線の枠に戻る形で外交の基軸を定めることとなった。


中曽根外交の意味

1970年代に成立した日本外交の枠組みの下で、その基盤的部分は受け入れながらも、日本外交のさらなる自立を志向したのが、中曽根康弘であった。1970年代初期に中曽根がとなえた自主防衛論非核中級国家論は、中曽根外交の基本的発想を反映したものであった。非核中級国家論は、まさに吉田路線を前提とした戦略論の柱であり、自主防衛論は、非核中級国家論を前提にした上で、日本のより主体的な防衛政策を求めたものであった。

そこには、日本の核戦略として核の傘はアメリカに依存し、自国の防衛には自主を貫き、対等な日米関係を確立し、アジア侵略の歴史に関しては国際的及び世界史的に通用する理解を持ち、諸国に脅威を与えないという方針が盛り込まれていた。







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最終更新日  2007年01月10日 00時25分03秒
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