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湖の彼岸 -向こう岸の街、水面に映った社会、二重写しの自分-

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2007年01月12日
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カテゴリ:政治・社会学文献
by Hosoya


冷戦としての米ソ対立の狭間で、ヨーロッパは過去の栄光と力を失っていた。植民地帝国は瓦解しつつあり、経済的困窮がしばらく続いていた。脱植民地化の波に覆われる中で、ヨーロッパ諸国はヨーロッパ統合に未来の希望を抱くようになる。統合によって再生しつつあるヨーロッパは、アメリカに対する相対的自立を求めながら、1950年代以降、大西洋同盟内での相互の確執を深めていった。


1 帝国の喪失

植民地問題をめぐる国際政治


「帝国」から撤退した西洋諸国は、「ヨーロッパ」という枠組みに自国の将来をゆだねる。
第二次世界大戦時の日本の東南アジアでの戦争行動は、アジアにおけるヨーロッパ植民地主義の伝統を決定的に破壊した。
植民地に住む人々は、宗主国が守ってはくれぬ事を知り、偉大なるヨーロッパの植民地帝国が惨めに敗退する姿を目の当たりにした。これはアジアやアフリカの植民地で民族主義的な運動をする指導者達に対して、大きな精神的変化をもたらすことになった。
インドはイギリス帝国の中で、最大規模かつ最も重要な歴史を担っていた。ところが、1947年8月アトリー労働党政権は、インドとパキスタンの独立を容認した。
コモンウェルスの中に友好的に位置づけたほうが自らの利益になるということであった。
イギリスは部分的に脱植民地化を容認しながら、依然として自らの世界的な影響力と責任を確信していた。


西欧植民地勢力と「第三勢力」構想

アジアやアフリカにおける脱植民地化の動きは、次第に冷戦対立の構造の中に組み込まれていった。植民地においては、民族主義が共産主義者であることが少なくなかったのである。
この脱植民地化と冷戦対立の交錯の中に、戦後世界政治の困難が生じる。
それがはたしてナショナリズムとしての民族解放戦争なのか、共産主義勢力のアジア・アフリカへの膨張なのか。
「西欧ブロック」とソ連圏という2つの勢力の境界線上にある、東地中海、中東、マラヤ、インドシナにおいて、現地勢力が「西欧ブロック」の内側に入ることが重要であった。戦後ヨーロッパにおける西欧強調の動きは、世界政治における冷戦対立の構造と並行して進められたのであった。
米ソ2つの巨大な超大国が国際政治の中心に位置するようになると、英仏を軸とする西欧諸国は、世界で「第三勢力」としての「西欧ブロック」を現実に形成する方向へと動く。
西欧諸国は、ヨーロッパとアフリカが一体となれば、経済力と資源量の規模で米ソと対等な力になりうると考えていた。そこで、西欧諸国にとってのアフリカやアジアの植民地の価値が再認識されたのである。
ところが、次第にそのような西欧植民地としての「第三勢力」構想が幻想に過ぎないことが明らかになる。西欧諸国政府は、アジアやアフリカにおけるナショナリズムの強さを、あまりにも小さく見積もっていたのであった。


脱植民地化の苦悩

インドシナにおいては、ホー・チ=ミン率いるヴェトナム独立同盟(ヴェトミン)が、1945年9月にヴェトナム民主共和国の独立宣言を一方的に行った。これを受け入れることのできなかったフランス政府は、自らの権威を失わないためにも1946年12月以降、軍事介入を行い、インドシナ戦争が始まった。
「反植民地主義」の理念を高らかに誇り、それを建国以来の理念としていたアメリカは、他方で植民地独立の過程で共産主義者が新興独立諸国の政権を握ることには反対であった。したがって「反植民地主義」と「冷戦の論理」という2つの理念の狭間で、アメリカ政府は揺れ動いていた。そのような中で、スエズ危機をめぐる外交劇がくりひろげられることになった。


スエズ危機とその後

1952年にエジプトで革命が起こり、それまで親英的であった君主制が転覆して、反英的姿勢を持つナセル率いるアラブ・ナショナリストが政権を担うことになった。
エジプト政府は英軍のスエズ撤退を要求し始めた。
エジプトのナセル大統領は、このころソ連に近づいていた。これに憤慨したアメリカ政府はエジプトへのアスワン・ダム建設の経済支援を停止し、ナセルは苦境に追い込まれる。この苦境を、ナセルはスエズ運河の国有化によって切り抜けようと試みたのである。
1956年10月、英仏両国は極秘裏にイスラエルと接触し、イスラエルがエジプトに戦争をしかけて、英仏両軍がその仲裁とスエズ運河「保護」の名目で武力介入するという「共謀」を考えた。
「反植民地主義」の崇高なる理念を掲げるアメリカが、英仏のこの行動を容認するわけにはいかなかった。
ダレスによれば、「われわれがリーダーシップを発揮しなければ、これらのすべての新興独立諸国はわれわれから離れ、ソ連の下へと向かうであろう」。
ダレス国務長官の目には、スエズでの英仏の帝国主義的な武力行使は、ハンガリーでのソ連の帝国主義とほとんど同じような、野蛮な行動であった。
アイゼンハワー大統領は、厳しくこの英仏の行動を非難した。また、同時にソ連政府は、軍事行動も辞さぬ姿勢で英仏合同軍のスエズからの撤退を要求した。イギリスは屈辱的な撤退を決意し、それにともなってフランスも作戦を中止した。
イギリスはあらためて英米関係の重要性を認識した。アメリカとの強調を無視しては、重要な外交問題を解決することはできない。したがって、イーデンを継いだマクミラン首相は、外交政策の基軸に英米協調を掲げたのである。他方、フランスは、アメリカの避難を浴びてすぐさま撤退したイギリスに対し強い不信感を抱いた。重要な局面でイギリスは、フランスではなくアメリカを選ぶのである。フランスはこののち、欧州経済共同体(EEC)設立に積極的な姿勢を見せ、さらには仏独協調の枠組みを強化する方向へとすすむことになる。植民地を失い、アメリカからの支持も得られぬヨーロッパは、もはやヨーロッパ統合によって自らのアイデンティティを確認し、自らの将来を託すしかないのであった。







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最終更新日  2007年01月14日 07時36分44秒
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