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湖の彼岸 -向こう岸の街、水面に映った社会、二重写しの自分-

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2007年01月18日
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カテゴリ:思想家・シリーズ
『資本論』(1867-1894)

(1) 商品の二重価値
古典派経済学の祖,アダム・スミス(1723-1790)によると,商品は使用価値であると共に(交換)価値であるという.つまり,毛皮は寒さから身を守るための価値(使用価値)を持つと同時に,それをある値段で売ることも出来るのだ.
資本主義が始まると(ヨーロッパでは15世紀),商品というものは「売れなければ使えない」ということになってしまった.つまり使用価値よりも交換価値の方が重視される,ということは「使用できなくても売れればいい」ような商品さえ生産されることになる.
この交換価値の使用価値に対する優位は,過剰生産(供給過多)がおきた際に,資本家が生産物を破壊するという行為を引き起こす.価格を釣り上げ,儲けるためである.作り過ぎた使用価値のある商品をただで困っている人々に配るなどということは考えられないことなのだ.実際に1930年代の大恐慌のときに,ブタやミルクの「過剰」を解決するために莫大な数のブタが殺され,ミルクが流された.無論,飢えている人が多くいるのにも関わらずに,だ.

(2) 抽象的労働と生産物の価値
ある物とある物が交換できるとき,しかしそれらは互いに等しいものではないはずである.それなのになぜ,そこで交換が可能なのか.資本主義においては,商品の交換を規制する原則は労働時間である.なぜなら,全ての商品は生産や占有にむけての人間の努力を必要とするからである.例えば七日間の労働で得られた商品一つと一日の労働で得られた商品七つが交換可能なのである.たとえそれらの商品同士が物質的には何ら似通ったところがなかったとしても.
もちろん,それらの商品を生産する際の労働そのもの(有用な労働)も決して等しくはない.しかし,そのような質を度外視して生産物同士が等しいとされるとき,その中に含まれている労働も等しいとされるのだ.そしてこの時の商品価値を決める「労働時間」も実際にかかった時間ではなく,その生産物が一般に必要とし,社会的に標準とされている労働時間なのである.例えば,力織機がイギリスに導入されたとき,布を作るのに必要な時間は半分になった.つまり,生産物の価値は半分になってしまったのだが,力織機を購入する余裕がなく,手で織っている人々の生産物も(それまでと同じだけの労働時間を要するにもかかわらず)半分の価値になった.彼等の実際の労働が変わったのではなく,社会的に標準とされる労働時間が変化したのだ.

(3) 貨幣と物神崇拝(フェティシズム)
どのような生産者もその生産物の使用価値を際限なく使い続けることは出来ない.そうすると,その生産物の使用価値は失われ,交換することによってしかその価値を取り戻すことが出来なくなる.ある生産者にとって余分な使用価値は交換されることによって,他の生産者にとっての使用価値になるのである.このようにして,商品はあたかもはじめから交換されるという性質を持っていたかのように貨幣と交換され,それを通して間接的に別の生産物と交換される.これがフェティシズムである.
商品の世界が拡大するに従い,さまざまな商品のそれぞれの等価性を示すときに明確な基準が必要となってくる.そこでその中のある商品を代表させて,それと他の商品を交換するようになってくる.具体的には,金がそれだ.もともとは金自体は他の物と変わらない生産物の一つに過ぎなかったが,「金本位制」がおこるにともなって,金以外の商品同士は金の媒介なしには交換できなくなる.それに対して金は他のどんな商品とも交換できる普遍的な商品となるのだ.それが貨幣である.

(4) 剰余価値
資本家は,貨幣を増やさなければならない.では,彼が一定額の貨幣から出発した場合,どのようにしてそれを超える額の貨幣を得るのだろうか.この「剰余価値」の問題に関する分析が「資本論」のクライマックスである.
生産者は,自らの生産物を売り,貨幣を手に入れ,それで更に別の生産物を手に入れる.彼は生活に必要な商品を得るために商品を売るのだ.ところが資本家は違う.彼はまず自らの持っている貨幣を出発点として,自分が必要としない商品を買う.そしてそれを売ることによって再び貨幣を得るのだ.彼は「売るために買う」.そしてこの時,資本家がもともと持っていた貨幣より多くの貨幣を彼は得る.それが剰余価値である.
この剰余価値は3つの基本的な形態,利子,地代,そして利潤に分割される.資本家が得た剰余価値のうち,もとに資本に対する利子,そして彼の使った土地や建物に対する地代,それらのものを引いたものが利潤である.資本主義においては「利潤の追求」こそが目的なのである.このような,資本の集積に基づいた生産システムが資本主義というものなのだ.

(5) どこから利潤は生まれるのか
しかしそのような剰余価値は一体どこから生まれてくるのだろうか.通常,競争の原理によって,商品はその価値以上の価値で売ることは出来ない.新たな資本は交換の過程に生まれるのではなく,生産過程において生まれるのだ.
つまり,労働力の価値を労働の生産物より少なくすることによって,そのような剰余価値が現れるのである.しかしこのことについて詳しく見る前に,なぜそのようなことが可能なのか,歴史を振り返ることによって考察しよう.

(6) 本源的蓄積(生産手段の本源的収奪)
原始的な社会では,人間の生産能力は,自分自身の再生産することが出来る程度の生産力しか持たなかった.しかしやがて,人間は生存に必要な量を超えた労働をし剰余生産物を作り出すだけの能力を身につけた.以来,剰余労働はさまざまな搾取する階級の支配下に置かれた.古代ギリシャ時代から始まる奴隷制社会では,奴隷主が(必要労働も含めて)搾取し,封建社会では,農奴が封建領主に剰余労働を渡した.
十四世紀の終わりにはイギリスの農奴制は実質的にはなくなり,人口の大半は自由な小農民となっていた.しかしまず,国王が,そして貴族がお互いの力を牽制するために,農民達の土地を収奪し,彼等は根無し草となってさ迷うしかなくなった.
生産手段を奪われた彼等は自らの労働力を生産手段を持つ資本家に売るしかなくなったのだ.これが労働者階級(プロレタリアート)の誕生である.確かに奴隷制時代に比べると,彼等は「自由」である.その労働力を売るかいなかは彼等の自由なのだから.
そのプロレタリアートと産業革命により発達した生産手段を組み合わせて,資本家達は巨大な利潤を得る.労働者は自分が何のために何を作っているのかさえ知らされることはないのだ.このようにして「労働の疎外(労働の譲渡)」が行われる.

(7) 労働者階級の搾取
ここでもう一度,商品の価値とは何かを思い出そう.商品の価値とは,その商品にを生産するのに平均的に要求される労働時間であった.ところで,労働力は資本主義社会では商品の一種である.では,労働力の価値とは何か.それは労働者の活力を再生させるのに必要な費用ということだ.歴史的に言えば,労働力を再生産する仕事は婦人のものであった.
さて,労働者の労働力の価値と等しいだけの商品を生産するのに必要な労働を必要労働と呼ぶ.この必要労働しか行われないならば,資本家には利潤はない.しかし,資本家は,この必要労働を超えた労働を労働者にさせる.これが剰余労働である.これが資本家の利潤となるのだ.

(8) 可変資本と不変資本
資本家はその生産過程を開始させるためには,二つのものを貨幣によって手に入れなければならない.すなわち,生産手段と労働力である.生産手段を手に入れるために使用された貨幣は変化しない.そのためこれを不変資本という.ところが,今見てきたように,労働力によって商品に付け加えられた価値は変化し,剰余価値を生み出すので,労働力を手に入れるために使われた貨幣は変化する.そこでこれを可変資本という.
さて,では,資本家の得る利潤をこの二つの資本から考えてみよう.今,不変資本 c をとし,可変資本を v としよう.さらに,剰余価値を s とすると,資本家が初めに使う資本(投資資本)は c+v であり,資本家が生産過程を終えた後に得る資本は c+v+s である.ここで利潤率とは,全投資に対する利潤の比率 s/(c+v) のことである.当然,c の v にたいする比率が増大すると,資本家は困る.この,c の v にたいする比率を資本の有機的構成という.労働力に対して,より多くの生産手段が採用されれば資本の有機的構成は増大していく.現代社会はどんどんとこの資本の有機的構成を高くしていっている.

(9) 競争
資本主義社会の市場は競争原理が支配している.ある資本家が,他の,自分と同じ生産物を生産する資本家に対抗しようとすれば,価格を下げなければならない.利潤を下げずに商品の価格を下げるにはどうすればよいのか.それは商品の生産時間に必要な労働時間の短縮である.商品の価値はその生産に社会的に平均された必要な労働時間であった.
そのためにより強力な生産手段が必要となる.その生産手段によって短縮される労働時間がその生産手段を生産するのに必要な労働時間より多ければ,意味がある.しかし,そのようにして,生産手段を向上させ,価格を下げながら剰余価値も保つことに成功したとしても,ここで資本家は驚くことに気付く.
つまり,s の v に対する比率(これを剰余価値率という)が変化しないとすれば,全体として利潤率は(不変資本が増大したのだから)下がっていっているのだ.

(10) 利潤率の維持
c が増加しながら,利潤率をも維持しようと思えばどのようにすればよいだろうか.それには二つの方法がある.すなわち,s を上げる方法と,v を下げる方法である.
前者の方法は1日の労働時間を増やすのである.剰余労働が増えれば,剰余価値も増加するのだ.これを絶対的剰余価値の生産という.後者の方法は,ある商品を生産するのに必要な社会的に平均された労働時間よりも早い時間で,その商品を生産させるのだ.必要労働が4時間であるとき,それと同じだけの価値の商品を生産するのに,3時間で済ませれば,余分の一時間は剰余価値となる.これを相対的剰余価値という.すなわち労働力の価値が下がったのである.

(11) 労働者同士の競争
必要労働というのは,絶対的に決まっているわけではなく,それぞれの社会によって異なる.労働者が強いところでは,労働力の価値は上がり,労働者の生活水準も高くなるが,資本家は極力,労働者の生活水準を動物並みに下げようとする.
ある労働者の力が強い(必要労働が多い.賃金が高い)ところの資本家は,別の生活水準が低い(必要労働の少ない.賃金が安い)場所から労働力を購入する.そうすると,高い賃金の労働者は低い賃金の労働者に駆逐される.
そして労働者同士は競争し,それは資本家の搾取のためには役立つ.労働者は自らの労働力を売るために必要賃金を下げざるを得ないからだ.こうして,高い生活水準の労働者は,資本家ではなく,低い生活水準の外国労働者にその怒りを向ける.

(12) 社会主義と革命
結局,これまで見たきたように,労働者の搾取は決して「自然」なものではない.それは,権力者達による生産者からの生産手段の収奪,本源的蓄積によるものなのだ.だから,労働に対する「賃金」と商品制度は廃止されねばならない.そのことによってのみ,疎外された労働は本来的な姿を取り戻す.本体的な労働とは,ある生産者が労働によってある生産物を得る.そしてその生産物を他の生産者の生産物と交換するとき,それは商品としてではなく,相互が欠くべきからざる存在であることを了解しあう.そのためになされるような労働,それが本来的な労働の姿なのである.
そのためには,労働者達が団結することによって,資本家達(ブルジョワジー達)を倒し,労働者階級を自己解放しなくてはならないのだ.これが社会主義革命の理念である.


出典
勝手に哲学史入門
http://www.geocities.jp/enten_eller1120/modern/kmarx.html





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最終更新日  2007年02月16日 04時10分55秒
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