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湖の彼岸 -向こう岸の街、水面に映った社会、二重写しの自分-

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2007年01月18日
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カテゴリ:思想家・シリーズ
カントでは,われわれの「精神」と,われわれには決して認識することのできない「物自体」の2つに世界はわかたれてしまっていた.さらにその結果,「理論的自我」と「実践的自我」の2つに「自我」も分離してしまった.この2つをふたたび統合するために,「ドイツ観念論」(Deutscher Idealismus)が生まれる.


ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel,1770-1831)

(1) 反対の一致
ニコラウス・クザーヌス(Nicolaus Cusanus, 1401-64)は神を反対の一致(coincidentia oppositorum )として把握した.彼によると,神は「絶対的に最大のもの」であり,そのうちには,すべてのものが包含される.そこでは,最大なものは最小なものと一致する.「絶対的に最大なもの」には,どんなものも対立し得ないので,それは絶対的な一性である.絶対的な一性はすべてのものを包含する.
神におけるこのような反対の一致を理解するための手引きとして,クザーヌスは多くの幾何学の例を挙げている.たとえば無限大の円の円周は曲線であり,また直線である.三角形のひとつの角が2直角に無限に近づくとき3つの辺はひとつの直線に近づくので,三角形は直線である.彼のこのような考えは,ヘーゲルの弁証法に強い影響を与えた.

(2) 真なるものは全体である
はじめヘーゲルは,シェリングと同様に,カント,フィヒテらの自我から出発する哲学にたいして,実在に先行するものは,個別的なもの,自我ではなく,すべての個別的なものを含んでいる普遍的なものであると考えた.
しかし,シェリングと異なりヘーゲルは,このような普遍的なものを無差別と考えず,発展と考える.すなわち,区別の原理を内に含み,自分自身を開示して,自然および精神の世界に表現される豊かな現実となる普遍者と考える.
ここでヘーゲルの主著『精神現象学』(Die Phaenomenologie des Geistes,1807)に述べられている「真なるもの」に関する2つのテーゼを見てみよう.
1 一切を左右する要点は,真なるものをただ単に実体として把握し,表現するだけではなく,全く同様に主体としても把握し表現するということである.
2 真なるものは全体である.しかし,全体とは,ただ自己展開を通じて己を完成する実在のことに他ならない.
ヘーゲルは,全体が「ひとつの」単純な実体ではなく,有機体的な複合体系であるとした.すなわち外見的な個々の事物はある程度の実在性をもつが,それは「全体」の中において関係づけられているのである.パルメニデスは,実体はひとつしかないので運動を否定したわけだが,ヘーゲルの思想では世界は動的なものである.
シェリング哲学においても,たとえばヘーゲルが『精神現象学』の序文において彼を批判しているのは,その絶対者の理念への到達の仕方と絶対者を無差別なものと考える考え方,そしてシェリングの原理は自己展開的でなく,すでに出来上がった図式(観念と実在との対立)をさまざまな対象へと適用する仕方である.シェリングによると,絶対者の理念に到達するのに直接的に「知的直観」(intellektuelle Anschaunuung)をもってする方法であり,それにたいしてヘーゲルは,絶対者への到達は,現象学のうちで一歩一歩進まなければならないとした.そして,絶対者はそのうちに諸区別の体系を内在的に定立していると考えた.
ヘーゲルにおいては,対立はすでに普遍者のうちに含まれており,それが自己展開していくのである.ではヘーゲルは,いかにして「運動」が可能だと考えたのだろうか.

(3) 弁証法
弁証法(Dialektik)とは,運動の内的構造を明らかにするためにある方法である.まず,あるテーゼ(定立,正)を立てる.そしてそれにたいするアンチテーゼ(反定立,反)が立つ.その後,テーゼとアンチテーゼの内容を保存したまま,それらを統一する,さらに高次の概念のジンテーゼ(綜合,合)に至る.このようなプロセスを止揚(aufheben,アウフヘーベン,揚棄)という.
そのようにして得られたジンテーゼにたいして,再びアンチテーゼが立てられ,また,そのジンテーゼに統一され,というように,われわれの認識はより高度になり,「真なるもの」すなわち「全体」へ近づいていく.そしてこの時,全体は,もちろん,その諸段階におけるテーゼをその中に保存しているのである.

(4) 自己意識としての精神
ヘーゲルによれば,精神の精神たるゆえんは,おのれ自身を知っているということ,つまり自己意識ないし自覚にある.しかし,精神はそのはじめから自己自身を完全に知りつくしているわけではなく,生まれたばかりの精神はあくまで可能的な自己意識であり,眠れる精神でしかない.この眠れる精神が目覚め,可能的な自己意識を現実化してゆくところにその本質があり,精神の存在とは,精神が精神になるその生成の運動に他ならない.
そして,精神のこの自覚は,カントのように自分自身のうちに閉じこもり自己を反省するという仕方で果たされるものではない.精神が真に自己を知ろうと思うならば,精神はむしろ自己自身を抜け出て,外的世界に働きかけ,そこに映し出されてくる自己を見るべきなのである.この精神の外的世界への働きかけが「労働」(Arbeit)である.
この労働によってなぜ精神が自己意識になるのであるか.つまり,「労働」とは,自己(正)が自己以外のもの(反)に働きかけ,それを自己の望む形に変えることである(合).つまり,労働の主体は,労働を通じて,いわば対象のうちに自己を移し入れ,自己外化(Selbstveraeusserung)するのである.この時,対象は,主体と対立するものであるから,主体の思うままになるものではなく,そのためには,主体自身も変わらなければならない.すなわち,労働において,労働の対象がその姿を変える間,その労働の主体も変化していくのである.
そして労働が完了し,労働の主体が対象のうちに自己を外化し,そこにいわばおのれの分身を認めうるようになったとき,その主体は自分のもっていた可能性の,少なくともその一部を現実化し,反省によっては知ることのできなかった自己を自覚するのにいたるである.つまり,ヘーゲルの言う「自覚」とは,労働をつうじての自己実現であり,そうして,労働の主体は対象のうちに自己の分身を見ることができる.これが,
他者において自己自身のもとにある.
ということであり,精神はより大きな自由を得ることができる.ただし,労働が完了したときには,自己自身も変化しているわけであるから,労働によって実現した自己は労働が完了したときの自己ではない.そこでそれはふたたび精神に対立するものとして現れてくる.このように,精神は,労働により弁証法的プロセスを経て成長していく.

(5) 絶対精神
このようにして,精神が弁証法的に成長していき,最終的に外界に精神と対立するものがなくなり,精神がすべてのもののうちに自己自身を見,すべてのものにおいて自己自身のもとにありうるようになったとき,精神は絶対の自由を獲得し,「絶対精神」(der absolute Geist)となり,歴史が完結する.
ヘーゲルにとって,歴史とは,絶対精神が絶対精神として自己を自覚する,自己実現するプロセスなのである.すなわち,ヘーゲルにとって,「労働」とは一般的な意味の労働だけではなく,歴史的な事業,アレクサンダー大王の東方遠征や,フランス革命,ナポレオンのイエナ占領も「労働」であり,絶対精神の自己実現の過程なのである.
ちなみに,ヘーゲルは,彼の時代はそうした絶対精神が絶対精神となる歴史の最終段階だと考えていた.彼はナポレオンを「世界精神」と呼んでいる.
こうして,人間理性はデカルトからはじまりカントを経て,ヘーゲルにいたりついに超越論的主観としての位置を完全に保証される.このことは,ヘーゲルの著書『法哲学講義』の序文にある
理性的なものは現実的であり,現実的なものは理性的である.
という言葉に端的に表わされている.これはつまり,理性の認めるものだけが現実に存在する権利をもち,したがって現実に存在するすべてのものは合理的であり,理性によって隈なく認識されえ,合理的に改造されうる,という意味である.


出典
勝手に哲学史入門
http://www.geocities.jp/enten_eller1120/modern/idealismus.html






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最終更新日  2007年02月16日 04時14分45秒
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