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湖の彼岸 -向こう岸の街、水面に映った社会、二重写しの自分-

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2007年01月18日
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カテゴリ:思想家・シリーズ
大陸合理論のような「生得観念」には根拠がないし,かといって,イギリス経験論のように,何もかも経験とするのには,「数学」のような普遍的な知の説明ができない.これらの問題を解決するには,「コペルニクス的転回」が必要であった.

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第1節 認識とはなにか
(1) ア・プリオリな総合判断
カント(Immnuel Kant, 1724-1803)はもともとヴォルフら大陸合理論の流れを受け継いでいたが,やがてヒュームによって「独断のまどろみから目覚めた」(『プロレゴメナ』).
経験論の主張を認めると,経験というものは個別的なものであるのに,それではどうやってわれわれは「存在」や「同一」「因果関係」といった普遍概念をもつことができるのであろうか.しかしだからといって,われわれは対象を客観的に知性(悟性)による直観によって認識できるのだという合理論(実在論)の主張,つまり,知性的認識は存在するがままの事物を認識することができるのであるという主張を認めると,では,その対象の実在を保証するものは何か,なぜわれわれが知覚していないものがそこに実在するといえるのかという問題が生じる.
この辺りの事情をカントは,その著『純粋理性批判』(Kritik der reinen Vernunf, 1781初版/1787第2版)の中でこう語っている.
われわれのあらゆる認識が経験とともにはじまることはまったく疑いがない.認識能力が対象によって生じるのでなければ,いったいなにをもってしてわれわれの認識能力は呼び覚まされ動きだすのであろうか.…しかし,われわれの認識のすべてが経験とともにはじまるとはいえ, われわれの認識のすべてが経験からはじまるわけではない(B1:拙訳).
そこでカントは,「ア・プリオリ(a priori )な総合判断」というものを考える.ここで「ア・プリオリ」というのは,「経験に先立って」というような意味である.
さて,この「ア・プリオリな総合判断」とはいったいどのような判断であろうか.まず,カントは,われわれの判断の仕方には次のような2種類があるという.
主語と述語の関係についてのあらゆる判断において,この関係は二種類の仕方で可能である.述語Bが,概念Aの中に(隠された仕方で)含まれているものとして主語Aに属するか,もしくは,BはAに結び付けられてあるが,しかしBは概念Aのまったく外にあるか,である.私は,前者の場合の判断を分析的と名づけ,第2の場合を総合的と名づける(B10:拙訳).
カントは分析的な命題の例として「物体は延長をもつ」という命題を,総合的な命題として「物体は重さをもつ」という命題を挙げているが,これらの命題が例として適切であるかは問題があるだろう.ともかく,つづけてカントは,「数学的判断はすべて総合的判断である」と言い,しかし,「数学的命題は,つねにア・プリオリな判断であって経験的な判断ではない」という.
このような「総合的でありながらア・プリオリであるような判断」があるということはどういうことであろうか.もし,科学的命題がすべてア・プリオリな分析判断であるならば合理論者の言う通りであろうし,ア・ポステリオリな判断であるならば経験論者の言う通りであろう.だが「ア・プリオリな総合判断」があるということはそのどちらでもないということなのである.すなわち,「われわれの認識がすべて経験でもって始まるにしても,そうだからといってわれわれの認識が必ずしもすべて経験から生じるのではない」ということなのである.
ここでカントは,代数学におけるア・プリオリな総合判断の例として「7+5=12」という例を挙げる.つまり,「7+5は12である」という命題において,7+5と12という2つのものは必然的に結びついているわけではない(つまり,分析判断ではない).これは,たとえば5本の指のような「直観」を援用して,それを7に加えることによってはじめて12になるということがわかるのである.
一方で,われわれはいくつかの加算を例示されることによって学ぶと,それまでに計算したことのなかった加算もできるようになる.これは,「経験によって」われわれの主観にあった加算規則が呼び覚まされるからだとカントは考えた.それゆえ,加算の結果は経験によって正しいのではなく,ア・プリオリに正しいのであると考えたのである(もちろん現代においては代数的な規則は規約的なものだと考えられており,規則の理解はウィトゲンシュタイン以降現代哲学の難問となっている).
カントはさらに,代数学的命題だけでなく,幾何学的命題や,そして数学的命題だけでなく自然科学的命題もまた,ア・プリオリな総合命題であるという(これもまた,当時のニュートン力学が誤りあることが20世紀に入ってからわかり,「自然科学的命題がア・プリオリな命題」だというカントの考えは誤っていたと考えられる).
すると,形而上学の課題は,
ア・プリオリな総合判断はいかにして可能か(B19:拙訳)
ということになる.

(2) コペルニクス的転回
上記の問題を解決するためにカントの採った方法は,感性と悟性,現象と物自体,という二分法である.以下ではこれらについてより詳しく見ていこう.
カントによると,合理主義者は現象をすべて知性(Verstand,悟性)化しようとし,経験論者は悟性(知性)概念をすべて感覚化しようとした.だが,
悟性(知性)と感性とは,それぞれ表象を生じさせる2つのまったく異なる源泉であり,しかも,この両者が合一してのみ,物に関して客観的に妥当する判断をなしうるのである.…知性を重要だと考えたライプニッツも,感性が重要だと考えたロックも,それらは直接,物自体を把握できると考えていた
ここでカントは,ロックやライプニッツらのような,認識が対象に依存しそれを「模写」するだけだという認識論(模写説)を,そうではなく,対象が認識に依存するという認識論(構成説)に転回した.彼はこの発見を,コペルニクスの地動説の発見にたとえて「コペルニクス的転回」といっている.
従来,あらゆるわれわれの認識は対象にしたがわなければならないと仮定されてきたが,対象についてなにごとかをア・プリオリに概念によって確定し,それによってわれわれの認識を拡張しようとする試みはこの前提の下で無に帰した.それゆえ今度は,対象がわれわれの認識にしたがわなければならないと仮定して,形而上学の課題がもっとうまく解けないかどうかを試してみよう.(BXVI:拙訳)
カントは対象をそのままで認識できるという考え方を放棄し,われわれ人間と無関係にそれ自体で存在する「物自体(das Ding an sich)」は認識することが出来ないとした.

(3) 感性の形式
そしてカントによると,空間や時間は,ア・プリオリに与えられてはいるが物自体の側にあるものではないので,客観的ではない.つまり,どのような経験でもそれがなされうるためには,すでに空間と時間とを前提としていることは明らかであるからア・プリオリであるが,しかしそれは概念ではない.なぜなら,普遍的な概念というものは,そのもとに個物を包摂しているものであり,それらを部分として自己の内に含んでいるわけではない.だが,これにたいして個々の空間および時間は,普遍的な空間および時間のうちに含まれているから,空間および時間は概念ではないのだ.
空間は,外感のあらゆる現象の形式(Form)以外の何物でもない.すなわち,空間は感性の主観的条件であり,この条件のもとでのみ,われわれに外的直観が可能となるのである.…したがって,われわれは人間の立場からのみ,空間や延長する存在について語ることができる(B42:拙訳).
時間はそれ自身で存立したり,客観的な規定として事物に付属しているような何かではない. それゆえ,事物の直観を成立させるあらゆる主観的条件を度外視しても,なおあとに残るような何かでもない(B49:拙訳).
空間も時間も,われわれの知覚に先天的(ア・プリオリ)に備わっている「感性的直観の純粋形式 reine Formen sinnlicher Anschauung」である.空間や時間の中で知覚される世界は,あくまで「現象 Erscheinung」の世界なのである.ア・プリオリな学問であるかのように思われる数学も,このような「空間」「時間」といった「純粋直観」がなければ成立しない.
幾何学は空間の純粋直感がなければならない.それから算術は数の概念であっても,時間におけるひとつひとつの単位が継起的に付け加わってくることによって成立されてくる.だから算術には時間の純粋直感がなければならない.
しかし,では時間や空間によって把握される現象世界は客観的ではないのかというと,カントはそうではないという.
…時間は,単にわれわれ(人間)の直観の主観的(subjektiv)条件に過ぎず,この主観を度外視すれば,時間それ自体では無(nichts)である.それにもかかわらず,時間は,あらゆる現象に関して,それゆえ経験においてわれわれに現れうるあらゆる事物に関して,必然的に客観的(objektiv)なのである(B51:拙訳).
つまり,カントは時間や空間の「経験的」実在性(empirische Realität)は主張するが,「絶対的」実在性は拒否する.
…われわれの解明は,対象として外的に生じるあらゆるものに関して空間の実在性(Realität)を教えるが,しかし,それと同時に,事物が理性それ自体によって考えられるならば,すなわち,われわれの感性の性質を考慮せずに考えられるのならば,事物に関しては観念性(Idealität)を教える.したがって,われわれは,(あらゆる可能的外的経験の可能性に関して)空間の経験的実在性を主張するが,それと同時に,空間の超越論的観念性(transzendentale Idealität)をも主張する.すなわち,われわれがあらゆる経験の可能性の条件を捨て去り,それらを物自体を根拠付けるようなにかあるものとして採用するやいなや,空間は無となるということも主張する(B44:拙訳)
時間や空間はあくまで現象の世界に属するのであり,その限りでは実在性をもつが,それが物自体に属すると考えると,つまり超越論的観点から見ると,何者でもない,すなわち観念性しかもたないということである.
空間あるいは時間において直観されるすべてのもの,つまり,われわれにとって可能的な経験のすべての対象は,現象以外のなにものでもない. 言い換えれば,単なる表象(Vorstellung)以外のなにものでもない. この表象はわれわれの〈思想〉以外のところには,それ自身で基礎づけられるような存在をもってはいないのである. 私はこの学説を,超越論的観念論(transzendetale Idealismus)と名づける. 超越論的な実在論者は,われわれの感性の変様をそれ自体で存在するものにしてしまい,だから単なる表象を事象そのものにしてしまうのである
つまりカントは,「超越論的には観念論」であるが,「経験的には実在論」なのである.

出典
勝手に哲学史入門
http://www.geocities.jp/enten_eller1120/modern/ikant.html





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最終更新日  2007年02月16日 04時07分25秒
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