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湖の彼岸 -向こう岸の街、水面に映った社会、二重写しの自分-

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2007年01月18日
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カテゴリ:思想家・シリーズ
(4) 純粋悟性概念
このようにして空間や時間は現象世界を成立させるために,「対象を直観するところの主観に属する」感性の形式であった.しかしカントによると,
経験は,きわめて異なる2つの要素,つまり,認識の「質料(Materie)」と,この質料に秩序を与える「形式(Form,形相)」とを含んでいる.
認識の材料(質料)などは感性の受容性によって世界から受け取る.しかし,そのまったくの素材に,形や脈絡(形相)を与えるのは,主観の自発性の能力なのである.そのような,感性によって受け取った素材を何か意味のあるもの,脈絡のあるものとして関与するのが,悟性の能力,「純粋悟性概念 reine Verstandesbegriffe」なのである.
われわれの認識は心のふたつの源泉から生じる.そのうちの第一のものは表象を感覚する能力(印象の受容性)であり, 第二の能力はその表象によって対象を認識する能力(概念の自発性)である. 第一の能力によって対象はわれわれに与えられ,第二の能力によって対象がおのおのの(心の単なる規定としての) 表象との関係において思惟されるのである.(B74:拙訳)
そしてその先天的諸概念を「カテゴリー(範疇,純粋悟性概念」と呼んで,そのようなカテゴリー表を掲げようと試みた.アリストテレスもこのようなカテゴリー表を掲げようと試みているが,しかし彼はこれを共通の一原理から導き出さないで経験的に拾い集めており,しかも直観形式であって純粋な悟性概念でない空間および時間をそのうちに入れるという誤りを犯しているとカントはいう.
では,カントのいう共通の一原理はなにか.それは「判断」である.判断のあらゆる種類を考察すれば,悟性の根本概念は完全に見出されるであろう.こうして,カントは,カテゴリーを次のような3個ずつの4組,計12個あるとした.
1 量に関して(Quantität):単一性(Einheit),数多性(Vielheit),全体性(Allheit)
2 質に関して(Qualität):物の事象内容を示すこと(Realität),否定性(Negation),制限性(Limitation)
3 関係に関して(Relation):実体性(Subsistenz)と偶有性(Inhärenz),原因性(Kausalität)と依存性(Dependenz),相互性(Gemeinschaft)
4 様相に関して(Modalität):可能性(Moeglichkeit),存在性(Dasein),必然性(Notwendigkeit)
これらのカテゴリーももちろん主観的なものに過ぎない. このように,受動的な直感の能力である感性と自発的な概念の能力である悟性という2つの能力が働くことによって認識は成立するわけである.
第1章で見たように,デカルトによって,人間理性は他の存在者の現実存在を保証するこの世界を超え出た「超越論的」原理となる.しかし,それはまだ,あくまで神的理性によってその座が保証されているのである.しかし,カントは,そのような神的理性の後見なしに,有限ではあるがそれ自体は世界を超え出ていながらその世界の存在を基礎付ける主観の働きとしての「超越論的主観性」として,人間理性を規定したのである(このためにはカントのいう「コペルニクス的転回」が必要であった).イギリス経験論におけるロックやバークリーの「精神(spirit)」はまだ個人的な心的実体であったが,カントの場合は先天的な(つまり超越論的な)主観なのであり,現象の世界は客観的なのである.
しかし,このように,人間の悟性概念を12個だけに固定化することには当初から反論があった.後にヘーゲルはこれをもっと柔軟化し,人間の認識能力は弁証法的過程によって際限なく増大していくとした.

(5) 図式
さて,ここで問題になるのは,次のことである.すなわち,カントによると,対象は感性から悟性へと来たり認識されるが,感性と悟性とはまったく別のものであった.
では,いかにして,感性的な対象に悟性はカテゴリーを適用するのか.感性的対象への悟性の適用は,この両者の間には,両者の性質をあわせもっているもの,すなわち,一方で純粋に先天的であり,他方では感性的であるような第3のものが介在しなければならない.このような性質をもっているものはなにか.
それは時間である.超越論的な時間規定,たとえば同時存在の規定は,ア・プリオリであるからカテゴリーと同質であり,かつ,現象するものはすべて時間のうちにのみ表象されうるから現象する対象とも同質である.この意味でカントは,超越論的な時間規定を超越論的図式(das transzendentale Schema)と呼び,悟性がおこなうその使用を純粋悟性の超越論的図式性(transzendentaler Schematismus des reinen Verstandes)と呼んでいる.図式は自発的に図式的に規定する構想力(Einbildungskraft)の産物である.
構成力とは,

対象が現に存在していなくても,その対象を直観において表象する能力である(B151)

さて,先に見たように,カテゴリーには4組ある.それぞれどのような図式をもっているのだろうか.
1 「量」の普遍的な図式は,時間系列(Zeitreihe)あるいは数である.数とは単位(同質的なもの)を単位に順次に加えることを含むところのひとつの表象である.量という純粋な悟性概念を表象にもたらすためには,いくつかの単位を次々と構想力のうちにつくりだすよりほかにない.この算出を最初で止めるとき単一性が生じ,さらにこれを進めるとき数多性が,そして限りなく続けるとき全体性が生ずる.
2 「質」の図式は時間の内容(Zeithalt)である.質に属する実在性という悟性概念を感性的なものに適用しようとする場合,充たされた時間,すなわち時間の内容を考える.ある時間を充たしているものは実在的である.否定性という純粋な悟性概念を表象しようとする場合,空虚な時間を思いうかべればよい.
3 「関係」の図式は時間の順序(Zeitordnung)である.なぜなら,関係を表象するとき,つねに時間のうちにおける事物の一定の順序を考えるからである.実体性は,実在するものの時間内における事物の恒存として現れ,因果性は時間内における合則的な継起として,相互性はある実体のうちにある諸規定と他の実体のうちにある諸規定との合則的な共存として現れる.
4 様相の図式は時間の総括(Zeitbegriff)である.可能性の図式はある表象が時間の諸条件一般と合致することであり,存在性のそれは,対象が一定の時間のうちに存在していることであり,必然性のそれは対象があらゆる時間に存在していることである.  
このようにしてわれわれは,諸現象を経験認識へと高めることができるのだ. 

(6) 超越論的統覚
さて,時間の中に現れる多様を取り集め(Apprehension),受容する能力が感性であり,その現れては消えていく現象を経験とするためには,消えたいったものを「再産出(Reproduktion)」し,「再認(Rekognition)」しなければならないが,そのための能力が構成力であった.そうすると,このような構成力は,(再認識するのだから)自発的な能力であり,悟性的な能力である.つまり,感性における多様なものの取り集めには構成力を介して悟性的な能力が働いていたのである.

ところで,再認するためには,それを認識するなにものかがいる.それは,消えててしまったものといま再産出したものを比べることができなければならない.

このようなものは当然のことながら,かつてといまとで同じでなければならない.つまり,経験が成り立つためには,かつての「私」といまの「私」は同じでなければならない.これを保証する能力が「純粋統覚 reine Apperzeption」と呼ばれるものである.
「私は考える(≫ Ich denke ≪)」という意識は,私のあらゆる表象に伴ないうるのでなければならない.私はこの意識を純粋統覚と名づける.
私はそれを純粋統覚と名づけて,経験的統覚から区別する.また根源的統覚とも名づけるが,その理由は,この統覚が,もはや他の統覚から導出されえず,逆にあらゆる他の諸表象に伴なう「私は考える」という表象を生みだす自己意識(Selbstbewusstsein)だからである.
もともと「統覚」という言葉はライプニッツが導入した用語であり,「知覚(Perzeption)」を取りまとめる(ad-)という意味であった.そして,われわれが与えられた多様にある「形」を与えようとするならば,必ずそれには「私は…と考える」という自発的な自己意識が必要である.だから「純粋統覚」とはそのような「統覚」の根拠であり,ほぼデカルトの「コギト・エルゴ・スム」に対応する.それゆえ,
結合は決して対象のうちに存在していて知覚によって取り出されるようなものなのではない.この結合はまったく悟性のなすわざである.つまり悟性は,ア・プリオリに結合する能力であり,また直観における多様な表象を統覚によって統一する能力に他ならない.そしてこの統覚の統一という原則こそ,人間の認識全体の最高の原理なのである.
ということになる.もう一度,まとめると,われわれは,感性によって与えられた多様を,悟性という能力によってあるカテゴリーのもとに「概念」として形を与えるのだが,それには,時間の中で現れては消えていくものを再産出し,とりまとめる「私は…として考える」という自己意識としての「統覚」が必要なのである.
さて,このように考えてくると,現象の認識のためには,いまはもうないものを再び産出するという構成力の働きは決定的であるのだから,当初,単に感性と悟性という異質の能力をつなげる働きであった構成力が,むしろ,経験が経験であるために,感性と悟性に共通して横たわる根底のようなものに感じられてくる.

つまり,感性と悟性という二元論がもはや成り立たなくなり,三元的になっていく.そこで,『純粋理性批判』の第2版ではこの構成力の取り扱いは全面的に書き換えられることになる.すなわち,悟性を感性の上位能力として,構成力も含めて,もともと悟性のうちにあったものであるとするのである.


出典
勝手に哲学史入門
http://www.geocities.jp/enten_eller1120/modern/ikant.html





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最終更新日  2007年02月16日 04時07分45秒
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