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湖の彼岸 -向こう岸の街、水面に映った社会、二重写しの自分-

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2007年01月18日
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カテゴリ:思想家・シリーズ
第2節 理性批判
(1) 超越論的仮象
さて,「悟性」と「理性」は異なる.悟性はカテゴリーを,理性は「理念 Idee)」をもつ.そして,悟性は概念から原則(Grundsätze)をつくるが,理性は理念から,そのうちに悟性の原則が最高の基礎づけを見出すところの原理(Prinzipien)を作る.
理性の固有な原則は,一般に,悟性の制約された認識にたいして無制約的なものを見出し,これによってその統一を完成することである(自然に「法則」や「原理」を見出す自然科学はこの理性によって可能なのである).だから理性は無制約的なものの,すなわち原理の能力であるが,しかし対象と直接に関係せず,悟性とその諸判断とのみ関係するから,その活動はあくまで内在的でなければならない.
もしそれが最高の理性的統一を単に超越論的な意味に理解せず,認識の現実的な対象にまで高めようとするならば,それは悟性の概念を無制約的なものの認識に適用することによって超験的となる.カテゴリーのこのような超験的な誤った使用から純粋悟性を経験を越えて拡大しうるかのような幻想をもってわれわれを欺くところの超越論的仮象(transzendentaler Schein)が生まれる.理性の思弁的理念は,
1絶対的主観の理念,思考する実体としての魂の理念(心理学的理念)
2あらゆる制約および現象の総体としての世界の理念(宇宙論的理念)
3すべてのものの可能性の最高の条件としての,もっとも完全な存在としての神の理念(神学的理念)
の3つである.これらは,経験的な現実にはまったく適用できず,構成的原理(konstitutive Prinzip)でなくて規制的原理(regulatives Prinzip)であり,何らの対象も感性的経験内ではそれに対応していないところのたんなる理性の産物にすぎない.したがってこれらは,それでもなお経験に適用されるとき,すなわち現実に存在する客体と考えられるとき,まったくの論理的誤謬,はなはだしい誤謬推理と詭弁に陥る.
そして従来の形而上学問いは,結局は,その3つに関する問いで,それは物自体の側に属するのだから,そもそもが理論理性によっては答えが出ないのである.そのことをカントは『純粋理性批判』の「超越論的弁証論 Die transzendentale Dialektik」において示そうとした.

(2) 心理学的理念
伝統的な合理的心理学は魂(心)を,非物質性という属性によって霊的なもの(Seeliending)とし,非破壊性という属性によって単純な実体とし,人格性という述語によって数的に同一な叡智的実体とし,不死という述語によって空間的でない思考的存在としていた.
しかし,それらはすべて「わたしは考える Ich denke」から導き出されていて,これは直観でもなければ概念でもない,単なる意識,すなわちあらゆる表象および概念にともなってそれらを統合し担っているところの心の作用である.
この思考作用が誤って物と考えられ,主観としての自我が客観,魂としての自我の存在とすりかえられ,前者について分析的に妥当することが後者へ綜合的に移されるのである.自我を客観として取り扱い,これにカテゴリーを適用しうるには,自我は経験的に直観のうちに与えられていなければならないのに,実際はそうではない.であるから,不死の証明は誤った推理に基づいている
合理的心理学は,われわれの自己認識になにものかを加えるところの学説(Doktrin)として存在するものではなく,教訓(Disziplin)としてのみ存在する.すなわちそれは,この分野で思弁的理性に越えてはならない限界を定め,そうすることによって一方では理性が魂のない唯物論の懐に身を投じないようにし,他方では生活上われわれにとって何根拠もない唯心論のうちをさまよって道を失うことがないようにするものである.この意味でそれはむしろわれわれに,理性がこのような現世を越えた好奇的な問題にたいして満足のゆく答を拒むという事実を,われわれの自己認識を効果のない幻想的な思弁から有効な実践的使用に向けよという示唆とみなすように警告するものである.
と,このような結論を,カントはその合理的心理学の批判から導き出している.

(3) 宇宙論的理念
宇宙論的理念に関する問題は,4組のカテゴリーに関して,それぞれ4つ考えられる.そしてカントは,これらの問いには理論理性によっては答えられないことを,「アンチノミー(Antinomie,二律背反)」によって示そうとした.何かある主張したい命題のことを定立(Thesis,テーゼ)といい,その反対の命題を反定立(Antithesis,アンチテーゼ)という.そして,これら4組のカテゴリーに関して,それぞれ次の4組のテーゼ/アンチテーゼで表現できる.すなわち,
1 定立:時間・空間は有限である.
反定立:時間・空間は無限である.
(量について)
2 定立:世界にはそれ以上分けられない単純な部分がある.
反定立:世界にはそれ以上分けられない単純な部分がない.
(質について)
3 定立:世界には自然の法則に従う現象ばかりではなく,自由に基づく現象がある.
反定立:世界には自然法則に従う現象しかない.
(関係について.第一原因があるのか,ないのか.すなわち,第一原因はその原因を持たないのだから「自由」である).
4 定立:この世界には必然的な存在がある.
反定立:この世界には必然的な存在はいない.
(様相について.この世界に「目的(もしくは神)」があるのか,ないのか).
の4組である.そして,カントはこれら4組それぞれについて,テーゼ/アンチテーゼのどちらも証明できることを証明したのである.つまり,たとえば人間は,時間・空間が客観的に存在すると信じているから第1アンチノミーが生じるわけである.時間・空間は主観的なものに過ぎないのだから,有限でも無限でもない.
ここで,第1アンチノミーに関するカントの証明を少し見てみよう.まずテーゼの証明から.
仮に世界は時間的な始まりをもつとしよう.そうすると与えられたどんな時点をとってみても,それまでに無窮の時間が経過している,従ってまた世界における物の相続継起する状態の無限の系列が過ぎ去ったことになる.しかし系列の無限ということは,継時的綜合によっては決して完結され得ないことを意味する.故に過ぎ去った無限の世界系列は不可能であり,したがってまた世界の始まりは,世界の現実存在の必然的条件であるということになる―これが証明されるべき第一のことであった.
つまり,もし時間が無限ならば,現在までに無限の時間が過ぎたはずである.しかし,「無限の時間が過ぎる」などということはありえない.ゆえに時間は無限ではない.すなわち,時間は有限である,ということだ.次に,テーゼのうちの空間に関する証明を見てみよう.
ここでもまたその反対(すなわち世界は有限である)を想定してみよう.そうすると世界は,同時的に実在している物から成る与えられた無限の全体ということになるだろう.ところでいかなる直感についても,その直感のある限界内で与えられないような量の大いさということになると,われわれは部分の綜合によって考えるよりほかに仕方がないし,またかかる量の全体は,完結された綜合によるかさもなくば単位を単位へ繰り返し付け加えることによるかしなければ,どんなにしても考えられ得ないのである.従って一切の部分的空間を満たしている世界をひとつの全体と考えるためには,無限の世界を形成している一切の部分の継時的綜合が完結していると見なさなされねばならない,換言すれば,無限の時間は,並存する一切の物を余すところなく枚挙することによって,経過したものと見なさねばならない-しかしこのことは不可能である.それだから現実的なものの無限の集合は,与えられた全体とみなされ得ないし,従ってまた同時的に与えられているものと見なされ得ない.故に世界は,空間における延長という点からいえば,無限ではなくて限界を有する.
「無限の空間」というものをわれわれが想像しようとしても一時には出来ない.そこで,小さな部分から考えてそれをだんだんと大きくしていくのだが,それには無限に時間がかかるので不可能である.ゆえに空間は無限ではない,ということだろうか.
今度はアンチ・テーゼの証明を見てみよう.
世界が時間的に始まりを持つと仮定してみよう.始まりというのは,現実的存在のことである,すると物の存在していない時間がそれよりも前にあるわけだから,世界が存在していなかった時間,換言すれば空虚な時間がその前にあったに違いない.しかし空虚な時間においては,およそ物の生起は不可能である.かかる空虚な時間のどんな部分も他の部分に優先するようなもの,換言すれば,非存在の条件の変わりに現実的存在の条件を含んでいるという意味で,他の部分から区別されるようなものをもたないからである.故に世界においては,なるほど物の多くの系列が始まりをもたないし,従ってまた過ぎ去った時間について言えば,世界は時間的に無限である.
要するに,時間がはじまる前,というのが考えることが出来ないということである.次に空間について,
世界は空間的な有限であり,また限界を有すると考えてみよう.そうするとこの世界は,限界を有しないような空虚な空間の中にあるということになるだろう.そうすると空間の中における物の相互関係ばかりでなく,空間に対する物の関係もあることになる.ところが世界は絶対的全体であって,その外には直感の対象もなければ,従ってまた世界に対する相関者も存在しない.それだから空虚な空間に対するこの世界の関係というのは,けっきょく世界の関係するような対象は存在しないということである.しかしかかる関係は無意味であり,従って空虚な空間によって世界に限界が付せられることもまた無意味である.故に世界は空間的に全く限界を持たない,換言すれば,世界は延長に関して無限である.
これも,時間の場合と同様で,世界の外というものを考えると都合が悪いということだ.しかし,ここでもう少し考えてみよう.時間が有限だからといって,それが時間に「はじまり」があるということを意味しているのか,世界が空間的に有限であるからといってそれが世界に「外」があるということか.
たとえば,地球表面を考えてみよう.地球に「端」があるだろうか.地球表面にいる限り,地球の外というものは考えられない.しかし,地球は有限である.宇宙も同様で,地上が地球という三次元球の表面であるように,宇宙が四次元球(時間まで考慮すると五次元球)の表面だとすれば,世界は時間・空間的に有限でありながら,世界の「外」は存在しないし,時間の「始まり」も存在しない.
現代宇宙物理学では,たとえばホーキングが「無境界仮説」を立ててこのような宇宙観を提唱している.アインシュタインの相対性理論より,時間が(現在の時間を実数として)虚数であるならば,空間との区別がなくなる.そして,宇宙のはじまりにおいて時間は虚数であり,時空は閉じていたと考えることによって,「時間のはじまり」という難問を避けるのである.ただしこれはまだ「仮説」の域を出ていない.


出典
勝手に哲学史入門
http://www.geocities.jp/enten_eller1120/modern/ikant.html





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最終更新日  2007年02月16日 04時08分12秒
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