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湖の彼岸 -向こう岸の街、水面に映った社会、二重写しの自分-

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2007年01月18日
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(4) 神学的理念
1 存在論的証明(der ontologischer Beweis,本体論的証明)
「AがBである」というとき,この「である」は,その「事象内容」を示すだけで,主語のA「がある」必要はない.ある概念に存在が欠けていても,それの性質はひとつとして減るわけではないのである.だからそれがあらゆる性質をもっているとしても,それはまだ決して存在していることにはならない.「がある」という意味の存在は事象内容ではないのだ.
したがってまったく勝手に作り上げた理念から,それに照応する対象そのものを案出しようということは,まったく不自然なことであり,机上の知識をことあたらしくつくりかえたものにすぎない.
してみると,この有名な証明に費やされた労苦はすべて無益だったのである.人がたんなる理念によってその知恵を増すことができないのは,商人がその状態を改善するために,彼のもっている現在高へいくつかのゼロを足しても何の役にも立たないのと同様であろう.
カントは「財布の中の(現実的)百ターレル」と「想像上の(可能的)百ターレル」の区別を例として用いる.「想像上の」百ターレルは,想像「出来る」が,だからといって「存在する」わけではない.どちらの一万円も「(一万円)である」という形で表されるが,「がある」という点で決定的に異なる,ということだ.神の存在論的証明はそのようなものだ,というわけだ.
つまり,神は完全であるからあらゆる肯定的な性質を持っている.「存在する」は肯定的な性質である.だから神は存在する,というのが,存在論的証明の基本戦略であるが,「存在」をそのもののもつ「性質」にしているところが問題なのだ(「事実存在」と「本質存在」を混同している).
上に述べたように,カントは,「存在」というのは,主語概念の事象内容を示す述語ではないとする.では,一体どのような働きによって,事物は「現実的に」存在するのだろうか.カントはその働きを認識主観の行う働き,定立作用だと考えている.
ハイデガーによると,カントにあっては「事実存在」を成立させる働きは,認識主観のおこなう「知覚作用」,あるいはもっとひろく「表象作用」であるという.ハイデガーはさらに分析を進め,カントのこの「表象作用」はもっと広い意味での「制作作用」のヴァリエーションと見ることができるから,カントの考えの根底には,本人もはっきりと気づかないままに,「存在する」ということを「被制作性 Hergestelltheit」と見る存在概念が潜んでいるという.
2 宇宙論的証明(der kosmologischer Beweis)
宇宙論的証明は,存在しているものの必然性から出発する.すなわち,あるものが現存しているとすれば,その原因として必然的な存在者もまた存在しなければならないということである.アリストテレスでいう「不動の動者」である.しかし,この証明は,先の宇宙論的アンチノミーによって批判されている.すなわち,現象する偶然的なものから経験を越えて必然的な存在者を推論しているという誤りを犯している.
仮にこのような推論を承認しても,それによってはまだ神は与えられない.そこでさらに,絶対に必然的でありうるのはあらゆる実在性の総括である存在だけである,ということが推論される.この命題を逆にして,あらゆる実在性の総括である存在者は絶対に必然的であると言えば,ふたたび存在論的証明がえられ宇宙論的証明はこれと同じになる.
3 自然神学的証明(der physikotheologischer Beweis,目的論的証明)
一定の経験から出発して,この世界の事物の秩序と性状から最高の現存を推論するのが,自然神学的証明である.いたるところに合目的性があるが,それは世界の事物にとって外来的すなわち偶然的である.したがって必然的で智恵と叡智とをもって作用するところの,この合目的性の原因が現存する.この必然的な原因はもっとも実在的な存在でなければならない.したがってもっとも実在的な存在は必然的に現存している.
これは世界の形式から,この形式にふさわしく十分な原因を推論するのであるが,このような仕方では世界の形式の創始者すなわち世界の建築者がえられるだけで,質料の創始者でもあるもの,すなわち世界の創造者はえられない.
そこでやむをえず一足とびに宇宙論的証明に走り,形式の創始者をもって内容の根柢にある必然的な存在と考えるのである.このようにしてわれわれは世界の完全にふさわしい完全を有する絶対的存在をもつわけであるが,しかし世界には絶対的な完全はないから,われわれは非常に完全な存在者をもつにすぎず,もっとも完全な存在者を得るにはふたたび本体論的証明が必要である.このように,目的論的証明の根柢には宇宙論的証明があり,宇宙論的証明の根柢には存在論的証明があるので,形而上学的な証明はこのような循環を出ないのである.
自然が物理法則にしたがうのは一見,非常に不思議なことに見えるが,カントによると,それはそのように人間の精神の構造が出来上がっているのである.この世があまりに秩序だって見えるからといって,そこに神を見るのは誤りであるというわけだ.科学は科学としてこの世界がなぜ,秩序だっているのかなどということに思い煩わされずに,法則を見つけることに専念すればよいということになる.

(5) 理性,そして悟性・感性
もう一度ここまでの話を整理しておこう.
カント以前の観念論対実在論の争点は,認識は感覚のみか,知性(知的直観)によって対象を十全に把握できるものか,ということで,とにかく認識というものは対象をそのまま模写することであると思われていた.それをカントはひっくり返し,われわれの主観が世界を成立させるとした.ただしこの世界は物自体の世界ではなく,現象の世界なのである.われわれは物自体を認識することはできない.しかし現象の世界は客観的に認識できるのである.そして,それはわれわれ人間に先天的に備わった感性の形式と,統覚のおかげなのである.
われわれは,外部の現象世界からの刺激を,アプリオリな感性的直感(純粋直感)の形式である時間・空間によって整理し,秩序付けて受け入れる.次にその受取った現象世界からの刺激を,量に関して,質に関して,関係に関して,様相に関して,それぞれ3つ(計12)の,これもアプリオリな純粋悟性概念(カテゴリー)に基づいて,感性と悟性の橋渡しをする構想力(とりわけその図式機能:シェーマ)によって綜合することにより認識する.このようにして,われわれは「物自体」を客観的に認識することはできないが,「超越論的主観」によって「現象」の世界は,仮象としてではなく,客観的に認識できるとした.
つまり,カントは,理論理性によって捉えることのできる「現象界」と捉えることのできない「物自体の世界(intelligible Welt,叡智界)」とを峻別する.しかしいま見てきたように,われわれは経験を超越したようなもの(理念,Idee;理想,Ideal)を>求める存在である.たとえば,宇宙があまりも秩序だって見えるからといって,そこに理由(原理)を求めようとする.「理性 Vernunft」というのは,悟性や感性の上に立つ「原理の能力」であるが,このような理念,理想を追い求める性質がある.そして,理性が求めるような理念,理想は人間の精神にとっては必然ではあるが,論証できないもの(超越論的仮象)であり,そのため形而上学的な難問が生じるのである.
では,われわれの理性の働きは無駄のものなのかというと,そうではない,とカントはいう.理性が求める理念,理想は認識不可能なものなのだから,逆に実践することによって目指されるべきものなのである.このような理性は,だからむしろ,実践的立場において必然的に要請され,この意味で実践的理性の優位をカントは説く.かつて,アリストテレスは,実践的行為より観照の方が優れていると説いたが,カントは理論的理性より実践的理性の方を上位に置いたのだ.
われわれは客観的には十分でないにせよ,主観的には十分な信念をもっている.意志の自由,魂の不死,神の存在が,知識には必要でないのに,理性が切にわれわれにもたせようとしている3つの根本原理であるとすれば,それらの本来の意義は実践の世界において,すなわち道徳上の確信にたいして存在するのである.確信とは論理的な確実さではなくて道徳的な確実さである.


出典
勝手に哲学史入門
http://www.geocities.jp/enten_eller1120/modern/ikant.html





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最終更新日  2007年02月16日 04時08分37秒
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