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湖の彼岸 -向こう岸の街、水面に映った社会、二重写しの自分-

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2007年01月20日
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カテゴリ:思想家・シリーズ
スコットランドがイングランドと合併したのは、公式には1603年、スコットランドのジェイムズ六世王がイングランドの冠をひきついで、イングランドのジェイムズ一世王になったときから始まる。でも両王国は、理論的にはまだ別物で、ただ両者の冠がたまたま同じ頭に乗っかっているというだけだった。これは 1707 年の合併法まで続いたが、この法律でイングランドとスコットランドの両王国は永遠に合併された。

 1707 年以前には、この両国の間には驚くほど接触がなかったし、またお互いにいい感情も持っていなかった。スコットランド人はみんな長老派かジャコバイトて、それだけでもイングランド人口の 8 割とは疎遠になる。スコットランド人のほとんどは南に旅したことがなかったし、北に旅したイングランド人はもっと少なかった。スコットランドの伝統的な味方フランスは、イギリスの伝統的な敵だった。スコットランド人の学者や司祭は、教育を深めたり知的インスピレーションを得たりするのに、大陸ヨーロッパの大学やセミナリアのほうを向いていた。

 スコットランドの内部構造も、イングランドとは全然ちがっていた。エジンバラ宮廷はとんでもなく腐敗した醜い代物で、貴族「ギャング」に支配されていた。長老の集会と、異端審問好きなスコットランド教会が、スコットランドの地元政府らしき唯一のものだった。スコットランド農業は、「ランデイル」(小作人に、あちこち離れた小さな土地をいくつもあてがう)方式で、囲いもない畑をずいぶん短い契約で貸し付けるという半ば封建的で非生産的な形で運営されていた。よいメンとしては、イングランド側に比べたら、スコットランドの地主たちはずっと家族的で、そのライフスタイルや文化は、小作人たちのものとずっと近かった――だから社会関係はすばらしく良好だった。それにもちろん、謎めいた侵略しがたい高地は「野蛮」な部族に支配されていて、その社会、文化、政治、経済構造は、イギリスのその他のどこに比べて千年も古いものだった。

 1707 年以前は、この両国間の経済的な交流は、国境地帯でさえないも同然だった(というかこの地域では両国の敵対関係が最も強力だったかもしれない)。イギリスの重商主義政策のおかげで、スコットランド人は確実にイギリス領から排除された。スコットランド自身のイギリスとの貿易も、とんでもない貿易障壁のおかげで停滞していた。スコットランドの商業都市――というのはほぼ確実にグラスゴーだけのことだったが――は、地域の中継都市以上のものじゃなかった。スコットランドが植民地商業に割り込もうとする試みは、1698-1703 年にスコットランド植民地を中央アメリカに設立しようという、呪われた「ダリエン計画」で始まった――そして終わった。

 1707 年の合併法は、これらすべてを一夜にして変えたりはしなかった。この結婚は苦痛に満ちたもので、なんとか折り合いがつくまで一世紀以上かかった。少なくとも三つの血みどろのジャコバイト反乱が――1690 年、1715 年、1745 年――にスコットランドをその根幹から揺さぶった。その後遺症で、スコットランドの貴族は残った封建的な力を失い、高地も制圧されて鎮圧された。スコットランド教会は、その新しい監督教会的な教えの力にまるで耐えきれず、やがてきしみとともに崩れ去った。

 18世紀スコットランド人たちの心配というのは、貧しく後進的で停滞したスコットランドが、イングランドの世界クラスのダイナミックな経済と共通の市場と命運に放り込まれたら潰されるんじゃないか、ということだった。グラスゴーの商人たちは、貿易障壁撤廃や植民地へのアクセスを歓迎した(かれらはすぐにタバコ取引に手をつけた)が、自分たちがイギリスの競合相手に比べて、経験も財力も政治力も、足下にも及ばないことも知っていた。スコットランドの貴族も百姓も、どちらもイギリス流の資本主義がスコットランドの田園風景を「穀物や牛肉の工場」にしてしまうまでにどれだけかかるか、不安そうに心配したのだった。スコットランドはイングランドのように反映するか、それともアイルランドのような、イングランドに従属した貧困に凋落するのか? そして新しい自分中心の資本主義エートスは、スコットランド人の謹厳な道徳や伝統的価値にどう影響するだろうか?

 こうした問題は、18 世紀のスコットランド哲学者の頭の中で最大の問題だった。これまで何度もやってきたように、かれらは答えを求めてフランスの同僚たちの教えを仰いだ。フランスは当時啓蒙主義時代の最盛期で、だからその知的な炎はすぐにスコットランドに広がった。フランスの思索的・合理主義的精神は共有しつつ、スコットランド哲学者の研究は、厳しい懐疑主義と、もっと強い効用主義を混ぜることで抑制されたものとなっていた。またフランスとはちがって、スコットランド哲学者たちは特に経済成長と発展・開発に関心を持っていた。これは国際貿易と、出現しつつある都市的、商業的ブルジョワ社会の仕組みの結果だった――つまりはポスト 1707 年スコットランドの現実を反映した関心だ。

 「スコットランド啓蒙主義」は、おおざっぱに 1740 年から 1790 年頃まで続いた。フランスと違って、その主役は多くが学者だった。フランシス・ハッチソン (Francis Hutcheson)、アダム・スミス (Adam Smith)、トマス・レイド (Thomas Reid)、ジョン・ミラー (John Millar) はグラスゴー大学の教授だった。アダム・ファーガソン (Adam Ferguson)、デュガルド・スチュアート (Dugald Stewart)、ウィリアム・ロバートソンはエジンバラ大学だ。アバディーン大と聖アンドリュース大は、その生徒たちに支配されていた。だが大学の外で対話の方向性に影響を与えた重要な人々もいる。たとえばケイムス卿 (Lord Kames)、ジェイムズ・ステュアート卿 (Sir James Steuart)、ジェイムズ・アンダーソン博士 (Dr. James Anderson)、そして誰よりも高くそびえているのが、デビッド・ヒューム (David Hume) の影だ。

 スコットランド哲学者の三大関心領域は、道徳哲学、歴史、経済学だった。この三つすべてにおけて、デビッド・ヒュームが猛然と道を拓き、その他のスコットランド哲学者たちは、かれを支援するか批判するかだった。

 道徳哲学での大問題は、資本主義の貪欲な倫理が、社会性や同情や正義といった伝統的な美徳と相容れるか、ということだった。この問題はベルナール・ド・マンデヴィル (Bernard de Mandeville) の提案した有名なテーゼ、「個人の悪徳」は大きな「公共の便益」につながるけれど、美徳的な行動は大していい効果を持たない、という議論によってお挑発されたものだ。スコットランド哲学者たちは、個人の美徳と公共の善との二者択一というのはまちがいだということを示したかった。デビッド・ヒューム (1739-40) によるとんでもない提言というのは、道徳価値や道徳判断は、どのみち社会的構築物でしかない、というものだった。ヒュームによれば、快楽をもたらすものなら人々は「美徳ある」と判断し、苦痛に満ちたものは、人々は「悪徳」と呼ぶだろう。結果として、資本主義による道徳の腐敗なんか心配することはない。私的な道徳判断も資本主義とともに進化するはずだからだ。

 ヒュームの快楽主義的な解決案は、フランシス・ハッチソン (1725, 1755) によって完全にひっくり返された。かれは、美徳が快楽をもたらすのは、まさにそれが我々の自然で生得的な「道徳感覚」に訴えるからなのだ、と論じた。一方、悪徳が苦痛をもたらすのは、それが不自然だからだ。結果としてハッチソンは効用主義的な倫理観に達し、美徳の最高点は「最大多数の最大幸福」にあるんだと主張した。アダム・スミス (1759) はヒュームとハッチソンの立場を、「自然共感 (natural sympathy)」と「無関心な観察者」という人工物を設けることで融合させようとした。

 歴史の分野では、スコットランド人たちは文明の「自然発展」に関するメタ社会学的な議論を持ち出す傾向が強い。この「自然な歴史」あるいは「推測的な歴史 (onjectural history)」アプローチを創始したのはデビッド・ヒューム (1757) だ。推測的歴史は、アダム・ファーガソン (1767)、ジョン・ミラー (1771)、アダム・スミス (1776) によってはっきりした「段階」論的な形となった。たとえばスミスは、4 つの経済段階を通って進歩するものとして歴史を見ている。政治や社会構造はそれに伴うものだ。その4段階とは、狩猟採集段階、田園遊牧民段階、農業封建主義段階、そして最後の製造業段階(そしてスコットランドはいまやこの最後の段階に入ろうとしていた)だ。ファーガソンと同じく、スミスは分業と商業拡大こそが歴史を根本的に動かすものだとした。スコットランド学派の業績はヴォルテールをして、「われわれは文明に関するアイデアのすべてについて、スコットランドに頼っている」と言わしめた。

 まったく別の形の歴史――「叙述的」歴史――もまたスコットランドの学者たちが追求したものだ。この中で、デビッド・ヒューム (出てくると思ったでしょ) はその議論を呼んだ History of England (1754-1762) で道を拓いた。偉大な叙述的歴史は、他のスコットランド学者たちによっても、成功の度合いは様々ながら展開されてきた。たとえばロバートソン (1759, 1769) やファーガソン (1783) などがある。この歴史的なスタイルは、イングランドでも 1776 年に有名な『ローマ帝国興亡史』を書いたエドワード・ギボンなどが採用した。

 政治経済については、デビッド・ヒュームHume (1752) が別のアプローチを創始した。道徳や宗教についてやったように経済を社会・歴史的文脈に埋め込むのではなく、ヒュームはかわりに経済法則を、外部的かつ永続的に自立させることにした。貨幣のフェティシズムに陥った重商主義ドクトリンと農業の重要性を強調するフランスのアプローチを共に捨てたヒュームは、経済成長の主要エンジンとして商業を採用し、その障害は貿易の嫉妬と貨幣や信用・融資のまちがった使い方なのだ、と論じた。ファーガソン (1767) の分業論も別の次元を追加することになった。

 ヒュームに対抗して、ロバート・ウォーレス (Robert Wallace) (1758) とジェイムズ・ステュアート卿 (Sir James Steuart) (1767) は重商主義正当教義を (もうちょっとリベラルな意匠でとはいえ) 復活させようとした。だがステュアートの研究は、こんどはアダム・スミスの偉大な理論――『国富論』(1776) ――喚起してしまった。これは産業と製造業がえらいのだとしている。

 スコットランド学者たちの業績はフランスでは賞賛されたものの、国境の南、イングランドにはすぐにインパクトを与えなかった。北方のいとこたちが人類に関して難しい問題に頭を悩ませている間、イングランドのインテリたちは、ジョンソン博士の不毛な時代の浅はかな自画自賛に溺れていた(偉大な例外は、ここでもエドワード・ギボンだった)。ヒュームがスミスに、その著作英語版を刊行した直後に尋ねたように、「理性と意味と学習に満ちた本を、あの邪悪で見捨てられたキチガイどもに対して刊行することを思いつくこと自体が信じられないね」。

 スコットランドの啓蒙主義は 1800年代初期に終わりを迎えた。これはもっぱら、スコットランドにおけるキリスト教敬虔主義の台頭によるところが大きい。「急進派」長老派司教やトーリー党の政治家は、スコットランド哲学者たちの「洗練された異教性」とホイッグ党的な物言いに苛立って、やがてスコットランドの学校や大学の支配権を掌握して、教授任命やカリキュラムを変更し、もっと保守的で宗教がかった学者に有利にした。19 世紀初期の古典リカード学派の指導者だったジェイムズ・ミル (James Mill) とJ.R.マカロック (J.R. McCulloch) はスコットランド啓蒙主義の伝統で教育を受けてきた人々だけれど、でもかれらの指向に対して大学が門戸を閉ざしていたので、かれらは作業を続けるための腰掛けとして別のところを探さなければならなかった。


経済思想の歴史
http://cruel.org/econthought/schools/scottish.html







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最終更新日  2007年02月16日 03時40分27秒
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