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白昼夢国家へ
「表現」と「表出」は耳づてに聞いた言葉だから 出所元にあたらないとね。 「動物化」も同じく。 そうそう。統計は社会科学の重要方法だからそろそろやらないとね。 エスノグラフィー(質的) 統計(量的) 現代思想(理論) この3つを駆使すべきだね。 まあ、実際この3つを組み合わせてできる人ってそんなに多くないと思うけど。 *** この前の話で僕も思ったことを言わせてもらうと、 分野が違う者同士が話す時、お互い知らないことがでてきても、それを鼻で笑うことはやめようってことかな。 それだと話が止まってしまうからね。 確かにぼくは「心理学のお作法」については知らない。統計の方法についても知らないに等しい。 一方、白昼夢たちはカルスタ周辺とか、「コード化」とか、記号論的な話はあまり聞いたことがないのかもしれない。 そこらへんを互いにつつきあっても、どうしようもない。 「これは心理学のお作法の範囲外だから…」とか「これはカルスタ的には使えない…」とか言い出したら、お互いのお勉強をひけらかすだけで、発展のためのアイデアはなにもでてこないね。 おれはあの時、「敢えて」粗いアイデアとか思いつきでよかったんだ。何も語れないとするよりは。 さすがに白昼夢とおれとは、けっこう話してるから、あれだったけどさ。 ちょっとそういう意味では、T校というのは、自分のプライドの範囲内で話す、それを崩されたくないっていう風潮があるのかなって思ってしまったよ。それはどこにもあることだし、一概には言えないと思うけれど。 もちろん一生懸命考えてくれていて、誠実な人だし、いい人だと思った。 これはその人が生きる組織のハビトゥス(習慣)に対するおれのうがった見方であって、その人個人に対するあれこれでは全くない。しかも、純粋に学問的な話だし。 そもそも心理学の方法論は人間を統計的に観察するのに洗練されてて、カルスタ的エスノグラフィーは科学的にめちゃめちゃと言われればそれまでなのかもしれないけれど、それを言ったら、「心理学的客観性」もイデオロギーだろう?と「カルスタ的な」反論を加えたくなってしまう。そういう「神々の闘争」になる。 ほんとこれは学際的に、知の壁を乗り越えるために、必要なことだと思って、勉強になったんだけど、 そういうときは、まず専門用語は誰にでもわかるように翻訳すべきだね。 そして作法が違ったら、その「違い」と「違わないところ」をすりあわせて、共通の土台を作っていくことが大事だね。 そんとき、あくまで違いは大事で、その違いはなぜなのかってことを、自分の領域の一歩外に出て、第三者の視点で見ることを通した「弁証法」(自分を壊されることを怖れないこと。壊された自分をより高いところから見渡すための、自己と他者の発展的運動・成長)が、「学習」という契機になるのだと思う。 そういう意味で、研究対象を選択する際の「恣意性をできるだけ排除するための方法」とか、「反証可能性」を確保するとか、社会現象と研究対象の双方に共通する要素をあげていって、その相関関係を調べ提示する、とかのアドバイスは興味深いものであり、非常に有用なものだった。おふたりに感謝したい。 それにもともと白昼夢自身、先のコメントで「方法論を観ると、心理学と社会学は、作法が随分違う箇所があり、個人的には面白い」と言ってくれている。こういう感性を大切にしていきたい。そうすれば世の中はもっと面白くなる。 あえてもう一つ注文すれば、白昼夢もなんらかの研究であれ、作品であれを創作してってもらうともっと面白い。やっぱね、批判・ご指摘は歓迎なんだけど、一方的にいつもそうだと弁証法は難しい。けっこうね、研究って「言うはやすし、行うは難し」ってところあるよね、それは白昼夢も知ってると思う。 *** 弁証法のための共通土台作りは、以上の件でも顕著だったし、タクランケ氏との対話でもそうだった。 ぼくらの「社会学的磁場」とタクランケさんの「文法的・詩的磁場」とをすりあわせて、共通なものをつくるためには、ぼくはちょっと早急すぎたかもしれないし、お互いの用語の説明が足りなかったのかもしれない。 *** ぼくは最後にこう言いたい。 白昼夢国家たちとか、タクランケさんとか、こういう異分野同士で話す試みは素晴らしいものなんだ。 世の中には、まったく同じレベル・同じ見解・同じ本を読んでるような連中が集まって、互いの傷をなめあって、絶えず相互承認を繰り返し、自分たちのハビトゥスに合わない者は「バカだ」と決めつけて、権威主義的な磁場でふんぞりかえっている「同人」連中が一杯いる。それが一番安全で、自分たちの地位を保つに足りる方法だからだ。 研究者グループから、文学サークル、政治集会にいたるまでね。 それはヘーゲル的「市民社会」からは、最も遠ざかった原理の共同体である。近代の過剰流動性に耐えきれない者たちの(端的にニーチェ的な意味での弱者たちの)、閉じられた空間への回帰願望なのかもしれない。 こういった「タコツボ」化に抗い、「民主主義の永久運動」を謳ったのが丸山真男であり、これに対抗して「大衆の原像」を掲げたのが吉本隆明だった。 「大衆の、生活の原像」…これこそ最高形式の「タコツボ」であり、他者に理解不可能な「詩的磁場」だったのではなかろうか? 吉本は言う。「理解不能で結構。国家は共同幻想であり、われこそは生きられた確実な反逆の息子なのだから…」 僕は言う。「で? 君はそのロマンティシズムに酔いしれたいわけか? 君は一つの詩しか知らない… 君は川面に映った自分の顔を見つめるナルシスのように 君の詩を、君の生活を見ている ぼくはそれを詩人とは呼ばない 詩人とは、抱えきれないほどの他者である 自らの声が他者の声でかき消されるのが詩だ 痕跡の余韻こそが唯一の余情である 痕跡は自己と他者のズレであり それでもそれを埋めようとする欲望である ボードレールに帰れ!」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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