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タクランケさんへ
なるほど。「表出」と「表現」は吉本の言葉でしたか。 ぼくは宮台用語として知ったのですが、彼は吉本の影響を受けていますから、それはありえるでしょうね。 宮台には吉本的なものが、社会システム論をつきつめたあと噴出する傾向が見られます。 「社会システム論」と「祭り」の間が埋められず、いきなり飛躍することがある。 これはあとで白昼夢に話す、「科学と詩の間」のことにもつながってくるでしょう。 ハルへ 「オセロを永遠に」 このメタファーは非常に示唆深いと思います。ひっくり返し、ひっくり返され、ひっくり返された分、次はもっとひっくり返し…。私はオセロ盤の角っこばかり狙っていたんだと思う。絶対ひっくり返されないところを。そんなのないのにね。 これは大変素晴らしい表現です。白昼夢用語だと「美味」だ(笑 なにか歌謡曲っぽいところがある。それでいて心理的なものをうまく表現している。 オセロ盤の角っこばかり狙っていた そんなところないのにね これはもう青春ドラマの主題歌でしょう(笑 だれか昔のアイドルに歌わせてみたい。 松本隆以来、久しぶりにいい詞を聞いた。 何度でも聞きたい名曲です。ほんとうに 白昼夢国家へ まず、あの日の会話にぼくはそれほど苛立ちを覚えたわけではない、ということをここではっきり述べておきたい。 ハルに書いたものは、ちょっと小説ちっくなところがあって、詳細に心理分析すればこんなことだったのだろうということで書いてみたもの。 ぼくが魚の骨がのどにつまるような感じで引っかかってしまったことはふたつ。 (1)なぜもっと面白いほうへ話が展開しないのか。もし、ぼくの案に対してもっと面白い案を知っているなら、その手の内を見せてほしい、と思ったこと。 (2)分野内の作法はわかった。それはお互いあるだろう。しかしぼくらがしなければならないことは、異分野間の対話の作法だ。残念ながらそうした作法は確立されていなかった。 さて、(1)は、ぼくが白昼夢に白昼夢自身の研究を進め、できるなら見せてほしいと言ったことに関係している。ぼくはなにも、批判されるだけじゃかなわないから、ぼくも批判し返せるよう、君の作品を見せろと言っているわけじゃない。 こういうことだ。 なるほど。j校の心理学ベースで勉強してきた人に、この研究の方法は納得いかないらしい。それならば、彼らのそのような方法をどう使うのか、見せてほしい。はたして僕はその方法に納得するだろうか? たぶん納得しないだろう(笑)と。 自由主義圏に生きていた人間の中にはかつて、社会主義がどんなにすばらしい社会かと夢想するものもいた。ところが実際社会主義の実情を知るにつれ、「実は社会主義にも欠点があったのか。社会主義も万人を納得させるものではなかった」ということになった。逆にポスト冷戦後は、全面的に自由主義化する世界に疑問符がなげかけられている。「実は資本主義は万能ではなかった。こんなに問題点がある」。 こういう場合、ふたつを比べて良い点を統合する「第三の道」が必要になる。これが(2)の、異分野間の対話の作法である。 このとき、自分の領域に相手を引き入れようとしても無理が生じる。 心理学ベースに引き入れて、「これは心理学の作法では云々」と言っても、なにか発展性がないというか、「たしかにこの研究を心理学の作法でやればそうなるんでしょうなあ」といった感しかないのだ。 たとえばぼくは、ハルの研究に関して、「学習に関する研究をするのに、人々の学習の在り方を決定づけている、階級・ジェンダー・エスニシティの変数が欠けているのは致命的だ」と、彼女の研究を社会学の領域に引き込んではかることはしなかったはずだ。 このような場合、相手の領域に飛び込んでいって、内側からそのものを発展させるアドバイスのために、自分の分野の方法を「利用する」というやり方をとるべきだと思う。 *** さて、それでは、万人を納得させる方法があるのか、あるとしたらそれはどんなものか、という話にうつろう。 結論から言えば、世の中には万人が納得するものと、どうしたって万人が納得するわけにはいかないものがある。 前者は(1)自然の法則すなわちphysicsである。 後者は(2)人間の心と、その集合である社会である。 たとえばピタゴラスの定理は、ギリシャで発見されて以来、いつでもどこでもだれにでも納得できる普遍の法則だ。こういうものは統計ベースで、つまり数学の方法で示すことができる。 BC2乗=AB2乗+AC2乗 である。 プラトンはこうしたことに着目して、この目に映る絶えざる変化をつづける世界の背後には、絶対不変の真理(イデア)があり、それは数学の方法によって証明できるとした。彼が、物理学の領域、すなわち人間抜きの自然現象を説明している間はそれでよかった。しかし彼は<真・善・美>のイデアというもがあり、それもこうした方法によって証明できるとしたことが、のちのちまでに引きずられる西洋「形而上学metaphysics」の大問題となった。 たとえばプラトンは、国家を論じる際、数学的論証の正しさからはじめるのはいいが、「魂と善までの距離が何センチで・・・」とか(笑)、人間の心の問題とか、価値の問題までも、まるでピタゴラスの定理のように証明しようとするあたりから危うくなってくる。そしていかに国家に役立つ人材を育てるかとか、完全な社会問題となると、どうもすんなり証明しているとはいえない。そしてこのあたりから、国家から追放したはずの「詩人」ホメロスの詩の引用とかでごまかそうとしている(笑) 暗黒の中世をへて、科学者たちが産声をあげた。ニュートンの万有引力の法則は、万人が逆らえない、納得のいくものである。どうしたって、人は重力に逆らって、空中を歩くわけにはいかない。 こうした自然科学の人を納得させる方法をすんなりとひきついでいったのが英米系社会科学であり、おそらく白昼夢の参考にする心理学も英米系が中心なのではないだろうか? アメリカの政治学会は、投票行動を統計ベースで証明するのが主流だ。 たとえば、投票行動は以下のような数式であらわされる。 R(投票に行く)=P(一票の重み)B(期待効用差:政党間の政策の違い:政党から得られる利益)-C(費用)+D(長期的利益:義務感、民主主義の持続) ところがこれの前提となっている仮説は、「投票者は自己の利益を最大化しようとするプレイヤーである」といったもので、これは経済学の方法からぱくっている。 そして経済学はなにからぱくっているかといえば、物理学の方法である。物体と物体は均衡状態を保っているといったような自然現象の法則である。 こうした社会問題に統計ベースを持ち込むことへの懐疑は根強い。とくにヨーロッパ大陸系の社会科学ではそうだ。 哲学的にいってもデカルト、バークリー、ヒューム、そして現象学などなど。 最近ではポスト構造主義を中心にプラトン批判が高まっている。 さきの選挙行動だが、このような式で万人が納得するだろうか? 少なくともぼくは納得しない。だいたいその前提となる仮説が完全に正しいとは証明できないのである。 ハーバード大の経済学者が、第三世界の発展途上国におもむいて、「この負債がいくらで、これを相殺するために財政投融資をいくらにし、労働需要をここまで高めたらこの国の経済は発展する」と計算して実行したら、まったく思うようにいかないどころか、インフレ赤字がものすごくなって、「この式でうまくいかなかったのはこの国にまだインフラが整っていなかったからだ」とか言ってさっさと母国に帰ってしまうという例はよくあるらしい。 さて、心理学は統計ベースで人間の心を証明できるのか? できるなら僕はぜひ見てみたい。 フロイトが面白いのは、ぼくが知る限りフロイトがあまり統計を使わず、「こういう患者がこういう症状で、こういう証言をしていまして・・・」というエスノグラフィックとでもいえるような方法で心に迫っているからだ。そのような書物はまず面白いとされ古典として残る。 統計ベースで心を解明したとする心理学の古典があったら教えてほしい。それははたして、どの程度まで人の「心」にとどき、名作として読み継がれるだろうか? 面白さよりも証明が必要だ、と君は言うかもしれない。それならば、人間の心を、その集合であり、ダイナミックに変化する社会を、統計ベースでどれくらいまでとらえられるだろうか? おそらくある%で、集合の傾向は示されるだろうが、それで万人が自然現象を解き明かしたように納得するわけではない。 そのような数字も、ひとつの「レトリック」としては有効である。デュルケーム『自殺論』は、こうしたレトリックを巧に使った名著であるとされ、そうした研究がないわけではないことを付言しておく。 ちなみに社会学者の橋爪大三郎は、社会現象は再現不可能である、と言っている。考えてみれば当たり前の話だ。実験室の中の出来事ではないのだから、同じものをもう一度同じ条件で観察するなどできるはずがない。 研究対象の選択。はたして、それをなぜ選んだかについて万人を納得させられるだろうか? 研究対象の要素、その変数。それらのどれをとって説明するのか? 100個選んだところで、それは人間社会の無限の要素、変数のほんの一部でしかない。まことに恣意的であることに変わりはない。 統計でわかることももちろんあるが、それは社会現象のほんの一部であり、それは概して面白くない、それだけでは納得しないという多くの読者がいることを忘れてはならない。 ぼくの見せてほしかったこと、代替案として示してもらいたかったことはこういうことだ。 それならば心理学は、そのような方法論で、いったい何を研究対象として明らかにしようとしているのか? おそらくその方法では、一部の対象に有効なだけであって、社会現象・文化を追求する方法になりえないのではないか? おそらく・・・心理学が冠しているその「心」ですらも・・・ ハルによると、「心理学が「人間を統計的に観察するのに洗練されて」いるのはほぼ確かだと思いますが、統計的に観察するだけでは必ずしもない」 また白昼夢は、「精神分析学は科学ではありませんが、独自の方法で人間の感情について理解する」学問であると、さらに師匠を「科学ではないことへの自覚と、「あえて」、科学的対話可能性を破棄する態度」から尊敬していると言っている。 ここらへん、まことに心を扱うだけあって微妙なポジショニングだ。 その前の「イデオロギーに利用されないためにこそ、心理学は統計学の理論武装を試みている」という記述との整合性も含めて、いったいどっちやねん?と(笑) おそらく、統計ベースである、すなわち実験であることは確実だけれども、相手が人間であるため、その方法が貫けない、ということではないだろうか、と僕は解釈する。以上述べてきたような趣旨に基づいて。 ぼくはね、まず心を脳ととらえるべきだと思う。 そして脳科学は最近ものすごい発展してるけど、感情の構造を解明したという話は聞いたことはないし、これから先、当分そのような話はないらしい。 哲学的にも言語構造はだいぶ解明されてきたが、それをつかさどる感情は解明できてない。 ぼくはいまのところ、人間の心は直接的には調べられないと思っている。ではどうやって調べるのか? それは、心=脳の記憶がコード化され、言語や映像、音楽の文法にのせられたものを解読するしかないと思っている。 そういう意味で、カルスタの「読み」の多様性に着眼したところとか、送り手の意図と受け手の解読の非対称性とかはいい線いっていると思う。こうした「読み」であったり、非対称性であったりは、人間の高度な文化なので、実験室ではとても解明できるようなものではない。 直接社会の、文化の現場に行って、彼らの声を聞き取るしかない。 さらに大問題がある。君は君の関心事であるという「美」にどうアプローチするのか? 大変興味深い。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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