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湖の彼岸 -向こう岸の街、水面に映った社会、二重写しの自分-

湖の彼岸 -向こう岸の街、水面に映った社会、二重写しの自分-

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2007年10月12日
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テキストA

僕と君との齟齬は、何より君と僕との、学問や対話への姿勢の違い故だった。
僕らは各々が、現自点での学問的ステージの低さを自覚しているけれど、次のステップが異なる。
僕は高いステージを目指し、君はステージに縛られず他者との対話を図る故だ。

僕の立場のみ述べる。
学問という営みを、レンガの城の建造に例えよう。
僕は、より大きな城を造るために、積むレンガの大きさを揃える必要があると説く。
より大きな城を造るためには、積むもの同士がルールを共有しないといけない。
さもなければ、結局何を造っているか、進展状況、もし、事故が起きた場合の対処がしづらいのだとと説いた。
他のレンガがいかなるものか、レンガには、どんな種類があり、どんな性質があるかを知った上で、
適材適所で建造していくのが、「建設的」だと考える。

この例えを踏まえると、学問をする者は、多少なりとも「ジェネラリスト」とならざるを得ない。

無論、対話は必要だけれど、誰とでも対話が出来るだけの暇が僕にはない。
対話相手を選ぶためにも、またより高みの相手が対話を許可してくれるためにも、
僕はまず、より高みに上り、広い視野を手にしたい。


テキストB

僕なりの科学観と態度との、断片

量的研究に比べて、質的研究は「対象との距離」が「近い」。対象に対してより体験的だ。
それ故に、「肌でわかった」感じを覚えやすいのかもしれない。

しかし、どんなわかり方であれ、そもそも人間に完全な理解など得られない。
世界も、生命も、社会も人間が理解し得るなどおこがましい。その自覚をしつつ、科学者は今日も研究をする。

優秀な科学者は真理を知りえないという、逆説的な、唯一の真理を知る、
しかし、「冷たい真理」があってもなお、むしろだからこそ、と言えるかもしれないが、
彼らにとって、<世界>は組みつくせないからこそ、豊かで神秘的で、一層詩に溢れる。
科学という営みは、ロマンとアイロニーに満ちている。


テキストC

量的、質的、理論的研究

いずれかが優れているということではない、批判し合うという補完関係にある。
補完関係にあって、初めて意味があり、一つの学問は発展を見せる。
カルチュラル・ステディーズも3輪が必要だ。3輪が揃った学問は、いわば、戦車のような3輪車だ。


量的研究

量的研究は、質的/量的研究から導き出される理論研究を批判するものだ。
理論研究は、長い年月を経て大衆レベルで常識となる。
その常識を破壊/支持するものこそが量的研究だ。量的研究者にとって、常識破壊=こそが醍醐味。


科学者と文学

科学者には詩心が必要だ。理系であれ文系であれ。
小さなデータのいくつかから、大きな物語を用意するためにいわば文学的センスが欠かせない。


テキストD

君のブログへの応答。

そもそも万人を納得させる方法があるのかが、怪しい。歴史上のパラダイム転換を踏まえたし。

データの誠実さよりも面白いか面白くないかで、人は動く。
その通りだと思うが、証明や面白さよりも、まず誠実さを優先したい。
当面、面白さはサイエンスライターが担えばいいだろう。ただし、研究自体はやはり面白いと思えなくてはやっていけない。
且つ、目指すべくは、より複雑な事象をシンプルに扱えるよう、観るべく視点を塗り替えるパラダイムシフトだ。

社会現象は再現不可能。

そうだろう。
君が知るとおり、歴史学は一般に、物理学を道具とする事物の年代解析と文献研究との2本柱。
さらに両者の整合性を検討していき、歴史のパタン=法則性を炙り出す。
神経病理学/精神医学では、脳や精神疾患の患者を実験させるわけにはいかない、もしくは同じ症例の者が
他におらず、実験不可の場合、患者の特異な点を描き出すためのエッセイ的研究をすることがしばしばある。

認知心理学は「文化」も扱う。例えば、同じキャラクタの目の大きさをいじり、変数とし(それぞれ大・小)、
それを日本人と外国Aの人が見て、かわいいか5段階で評価するとしよう。
すると、キャラクタを観るという場合、2(目の大小)×2(国内・外の評価者)の四パタンが出来る。
結果、日本人は目が大きいキャラをかわいいとしやすく、
外国Aの人は目が小さいキャラがかわいいと判断しやすかったとすれば、
こうしたデータから、様々な文化的研究を持ってきて、あれこれ論じられる。

人間の心は直接的には調べられない。永井均氏は、そもそも「他者」という言葉は、
彼/彼女の心を完全には理解出来ないことを暗黙の前提にしていると指摘する。
仮説的構成概念という言葉を、もし知らないようならば、知って欲しい。

最後に。僕は、D・デネットに倣い、様々なデータ論文を読み続けながら、
「美」と「デザイン」の哲学を試みたい。そして常に、自身に修正と批判をぶつけたい。
オートポイエーシス、美学、複雑性、心の哲学、認知神経科学が当座のキーワードだ。

とりあえず、ここで、当初意図しなかった心理学VSカルスタという構図に終止符を。





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最終更新日  2007年10月12日 12時43分20秒
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