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湖の彼岸 -向こう岸の街、水面に映った社会、二重写しの自分-

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2008年02月16日
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カテゴリ:カテゴリ未分類
白昼夢に指摘されたことでもあり
ハルにもあのときアドバイスされたことでもあったんだけど、
自分も大学院行ったら、最低限の回帰分析や統計処理を身につけなければと思う。

思えば、文学や伝統的な政治学の方法(?)は学問の中でも例外的だ。
そういう例外的なポジションにぼくはいたんだ。
思えばというより、最近理系分野も覗いてるからそう思うようになったのかもしれないけど。

仮説→実験・分析→立証
そのような方法をぼくは学ぶ機会がなかった。
教育制度としてはよろしくないね、文学のような解釈学だけを教えるのは。
印象論をまぬかれえないから。

そのような方法では異論・反論にでくわしたとき、自分とは違う考えの持ち主が現れた時、
「おれの気持ちがわからないお前が悪い。おれを理解しない権力が、国家がそして科学が悪い」ということになる。
吉本隆明や全共闘のようにね。
たぶん吉本は理系の大学に在籍していただけで、ぜんぜん科学というものを理解していなかったと思う。

こうしたやり方は、マルクス主義の伝統の上に立ったカルチュラル・スタディーズにも顕著で、だから方法論的な問題を抱えている。

ただ、理系的な方法はある種マニュアル化されていて、覚えれば誰にでもできるやり方という側面があるから、
それに頼りすぎると問題意識を深められないという危険があることにも気をつけなければと思う。
結局は理系もアイデア勝負、ただしここでは妄想は通じない。

それから、わかるものだけわかろうとする、計算できるものだけ計算しようとする科学のやり方、対象の追い詰め方。
具体を切り捨てていく抽象化には自覚的でなければと思う。
極端な話、真空空間で物体の運動を調べても、それは直接的には現実に、特に人間社会には適用できない。

それなのに経済学は、物理学の法則性を真似ている。
だから人間行動の複雑さをとらえそこね、勘違いの政策を連発してしまう。
金は計算できるが、人間を計算することは難しい。

逆にいえば科学は、それだけ着実に少しずつ、わかったものだけ積み上げていく方法といえる。
そこは文系連中よりも誠実であり、生産的であり、なおかつフェアな議論をしている。
文学・政治学・社会学においては、詩がポリフォニックな詩ではなくなるように、議論がポリフォニックでなくなってしまうことがある。

哲学の実証と
科学の哲学化の同時遂行が必要なのかもしれない。

さて、心理学だが、文系にありながら理系の方法をとっていることは、独特の可能性のあるとても面白い学問だ。
でも逆に、真の文系と真の理系双方から食われると、やることがなくなってしまう。

なぜ存在するのかとか、そういう問題は哲学や宗教や文学が得意だし、
一方真の理系は、心なんてものはまだ文系の考え方だ、「心は脳だ」「心は遺伝子の産物だ」と言ってくるだろう。
たしかに、理系を突き詰めていけば、心なんて見えないもの、測れないものは、科学の対象にはなりえない。


(白昼夢へ:ちょっとまた卒論執筆で忙しくなったもので、思うことをブログに書いてみた)






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最終更新日  2008年02月17日 12時23分31秒
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