クオリアと意識について#173~180*知性、論理、思考、意味、イメージ、意識、心、本質、質、味わい、価値、生物、世界、宇宙、などの研究*イメージ思考でいこう*
クオリアと意識について#173~180*知性、論理、思考、意味、イメージ、意識、心、本質、質、味わい、価値、生物、世界、宇宙、などの研究*イメージ思考でいこう*クオリアと意識についてそれ以外の変換として、イメージ思考で拾い上げたのはこんなイメージです。意識の器(意識の主体)は、なんらかのエネルギー的な存在である、というのはそのままです。まずは、「意識の器」を、時間変化を伴った三次元(とりあえず)の存在とみなして、それが、脳を覆っている・脳に重なっている(あるいは何らかに連絡している)として、意識の器の任意の点におけるエネルギー密度をρと表して(ρの次元はエネルギー/体積)、そのρは、脳のニューロンたちの活動における電位(あるいは加えることの磁界)の変化に感応して、ρが時間と共に変動するのでρ(t)で(ここでエネルギーがいくらか入ってきそうである)、任意の点のエネルギーを全体に渡って積分して;S=∫dxdydzρ(t)dt;S=意識の器全体のエネルギーの総量ρ(t)は位置によって異なるので、ρ(t)→ρ(x,y,z,t)S=∫dxdydzρ(t)dt→S=∫ρ(x,y,z,t)dxdydzdt(数学的にもいい加減な表現です)となって・・・S/dxdydzdt=ρ(x,y,z,t)(数学的にもいい加減な表現です)これは、エネルギーについての密度関数といったところでしょう。その系の総エネルギーSは時刻によって変動するのかしないのか、場合分けする必要があるでしょう(任意の点におけるエネルギーは変動する)。Sが変動するとしたら、エネルギーが外部に出ていったり、外部からはいってきたりする、ということになります(先に、ここでエネルギーがいくらか入ってきそうである、という個所あり)。そのイメージとしては、先にだした、「池」のたとえ(二次元的ですが)が参考になるでしょう。しかし・・・まだまだ必要な項目やより具体的なことに対応したなにかが足りない・・・それを解こうとしても解けないでしょうね。それは関数化できるようなシロモノではないだろう、よって解けないだろう、場合分けと確率的な記述ならできるかもしれないけれど、といったような可能性については既に記しました、知性などについての研究のところで。(このモデルは初出ですが)。解けた場合は、その「変換」がどこかにでてくるでしょう。でもとにかく、解けそうにない。と思ったものの、もうちょっと踏ん張ってみましょう。まず、脳におけるニューロンの活動の位置は点ではなく、ある程度の範囲をもった領域(シナプスでの活動についても)です。その意味では、そこにおいては極限の操作をなす微分や積分は必要ではないのかもしれません。一方、意識の器のほうは、エネルギーのまとまった存在として、そのモデルと理論は(筆者は、という意味と同じ)考えています。そこでは、微積分を使えるという立場、脳に対応させるのだから極限の操作は無意味であり、微積分は使えないという立場、のふたつがあるでしょう。しかし、意識の器は精密・緻密なエネルギーのまとまり、と考えられるので、近似的に微積分を一応適用できる、とみなしましょう。先の記述においては、脳のニューロンたちの活動による、それらの電界(あるいは加えることの磁界)の変動が、そこを覆っている(あるいはなんらかに連絡している)意識の主体の多くの点(点といっても広がりのある領域でしょう)に、なんらかの変動を与え、その変動が意識の器全体に(瞬時に)波及していく、ということになるでしょう。意識の器は、一体性・全体性をもっている意識し味わう存在・実体ですから、それら波及していく変動(波動パターン)が、意識内容であり、そこに意識も意識内容の質(クオリア)も発生する、ということになるでしょう。さて、問題の「変換」です;脳は、意識の器の規格・性能・特性に則ってつくられている、とすれば(仮定ですが、それ以外ないでしょう)、脳のニューロンたちの活動(局所的・部分的な)によるエネルギーの変動を、脳のあちこち(それらに接している・連絡している)にそのまま送り込んだら、それらが意識の器全体に波及し、そのままで意識の器の中で、全体性・一体性をもった情報(心的内容・意識内容)に総合・統合されてしまう、ということになるでしょう。たとえば、動画撮影のためのデジタル式カメラは、走査という操作をやっており、それを画面に映し出せば、元の映像(に似たもの)が再現されます。(たんなる単映像カメラ(フィルム式を含めて)でも、電子的に情報を送るためには、走査という操作を行います)。それと同じようなことが、意識の器~脳の系では起こっているのだろう、ということです。(あるいは、既に述べたように、ホログラム変換、フーリエ変換、の可能性も排除できません)ですから、その立場では、その「変換」は、意識の器の中で自動的になされる、と考えられます。注)既に述べましたが、脳に端子を設け、視覚信号や聴覚信号として、カメラやマイク的な信号を直接送り込むと、脳はそれに有効に対応していくそうです。そのことは、脳は意識の器の規格・性能・特性に基づいて設計されつくられている、という印象をもたらします。注)さらに、人間において、ある種の薬剤によって、見ている景色がゆがむ、といった現象も起こるそうなので、それも同じく直近の結論に至らせます。脳が本来どおりに働かないと、映像が歪む、と解釈できるからです。そこで、その「変換」を研究するにはどうすればいいか考えてみましょう。脳におけるニューロンの活動を観察記録し、さらに、意識の主体における波動のようすを観察記録する。最小単位時刻毎にそれらを比較する(もちろん、記録をなさず、同時に比較してもよい)。すると、その「変換」がわかる。ほかのやり方もあるでしょうが、基本的にはそういうことですね。つまり、脳におけるニューロンたちの活動をなんらかに記述し、それをなんらかに変換すると、意識の器の中での複雑な波動パターンとその経時変化がでてくる、という関係になっているわけです。(たとえば、フーリエ級数と一本化した複雑な波動。たとえば、行列と一本化した複雑な波動。たとえば、元の映像とホログラム。など)MRI的手法を用いると、そこのところに迫れるかもしれません。MRIでの解析においてもフーリエ変換(二次元、三次元)が用いられているので、なおさら参考になるかもしれません。MRIにおいては、脳のすべての位置からでている情報が、すべて混じり合って、一本化された信号(たとえば、絵の情報を電送するとして、電送するその信号のようになっている)(ある意味、ホログラムにもいくらか似ている? 原理は異なるけれど、似た面がありそうです)になるので、それをフーリエ変換で、元の情報に戻し(そのときに位置の情報まででてくる)、脳のすべての地図のようなものを作る、ということをやっているようですから、参考になるかもしれません。それは、局所的なさまざまな情報が一本化されている姿(変換するまでもなく、自然にそうなる)を示しているという面ももっています。(それは、オーケストラの演奏をマイクで拾うと、一本化された音楽情報になっている、というのと基本的に同じです)。それを脳と意識の器の関係にもっていくと、脳のあちこちのニューロンが活動し、そのときにそれぞれが電位や磁界の変化を生じ、それら変化たちがそこから出ていき、少し離れたところでは、それら変化たちが入り混じって一本化された情報(変化・変動)になっており、それが意識の主体に送り込まれると、本来の心的内容・意識内容になってしまう、というイメージですか。あるいは、少し前に述べたような、意識の器には、ばらばらな情報のままで入る、というモデルの方があたっているのかもしれません。ともかく非常に参考になりそうです。注)MRIについては、参考になりそうな気がしたので、ネットで探して、難しいことがたくさん書かれているのを、さっと見ただけですので、勘違いがあるかもしれません。そのほか、もちろん、私の書いているものすべてについても、勘違いや間違いはあるでしょう。イメージスケッチ・書きなぐりですから。脳波もそれらになんらかに関係しているかもしれません。脳波をフーリエ変換すると、ニューロンたちのそれぞれの活動のようすがわかるとか(ひとまとまりになったもの→個々)、脳波は、意識の器の中での波動パターンになんらかに対応しているとか、そういった関係になっているのかもしれません。位置ベクトルの場合、なんらかの位置ベクトルを加えると、視点を変換することができる。たとえば、かなり以前に述べた惑星の運動量時間回帰における視点で、惑星自体から見る立場を、太陽から見る立場に変換する例を挙げた。そこには、ホログラムと共通したなにかがあるのではないか。で、意識の器の次元を、一応、時間変化を伴った三次元として、フーリエ級数的に、その基本波動をはじめとしてうんぬん、ということも既に書きましたが、それは波動関数ということになるんでしょうね。質の科学では、そこのところは、「なんらかに変換して」で、済ませているし、それでよく、それ以上は必要ない、ということも以前に記しました。さて、質の科学では、そういったふうに、有効な着眼・視点たちを発見して、そこからの考え方・思考実験によって、難しい数式・計算などは用いず、おおまかで概算的なやり方や概念による計算で、さまざまな結論をだしてきています。たとえば;「自分とまったく同じ人がもう一人いたら、どうなるか」→「二重の意識状態になるけれど不思議ともなんとも感じない・思わない」→「自分というのは自分の意識である」→「自分の中の、意識以外はどう変化しようが自分の意識だけは変わらない」→「自分の中の意識以外はどうにでも変化していく」→「意識の主体の総数と、生まれてくる人間の数を比較すると、生まれてくる人の数の方がはるかに(無限に)多い」→「意識の主体が、脳の一部であろうが、脳の全体であろうが、霊魂のような存在であろうが、転生はある」(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。