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6/3:有加筆:このスレッドの継続分にPCでは毎日加筆しているが、このところ加筆した分の一部・・・あちこちに加筆するので、その中の数か所・数パラグラフ(数ブロック)・・・この「加筆形式#3」は、量がかなり多くなったので、ここに載せるには、7分割しないと納まらない──容量制限があるので──。ほかのサイトにもアップロードするので、総計で手間と時間がかなりかかる。そういうことなので、当分、加筆した一部分を載せることにしよう。その前に:本論は世界初であって、今までにだれも唱えたことのない論であり唯一無二であって、その仮説体系そのものにかかわる文献も皆無である。本原稿中の概念や「たとえ」そのほかは、正確・厳密ではない。記述においてもそうである。本原稿は雑記であって、間違い、いいかげんなところ、訂正すべき個所が多い。重複も非常に多い。「対象や在り方」をひとつに限定したような記述をしている個所たちについていえば、「対象や在り方」が複数である可能性もある。つまり、そこでは他の可能性たちもある。書き込みの不足している個所たちもある。誤解を招く記述もある。矛盾している個所たちもある。整合性がとれていないところもある。文・文章自体にも間違いがあるところもある。本テーマについての科学的能力のない者の噛みつきを禁ずる。とにかく揚げ足をとってはならない。ケチをつけてはならない。それらは傷害罪に当たる。引用元の明記なしに、自分のもののごとく用いたら(盗用)、あとが大変なことになるのはわかりきったことである(引用元を記せば使える)。「ここは公であり、衆人監視・環視の場である」茂木さんのクオリアマニフェストから言ってもそうである。加えて「ネット世界も公であり、衆人が監視・環視している」本理論体系の理解を完全なものに向かわせるには、全部を読むしかない。複数の仮説がひとつの体系をなしているし、今までになかった概念が複数からまっているので、そういうことになる。 心脳科学(仮説) 題目と説明正式題目:「心・意識・脳を総合したモデルとシステム明細をもつ、科学的で自然工学的な仮説sの体系なる理論」別の題目:「心脳工学(仮説)」 「意識工学(仮説)」 「心・意識・脳の科学(仮説)」 「意識の科学(仮説)」 「心の科学(仮説)」 「心工学(仮説)」 「心・意識・脳の自然工学(仮説)」 「意識・心・脳の科学(仮説)」(仮説は複数である:仮説=仮説たち=仮説体系=仮説たちの体系)本原稿は研究途上にある雑記である。ある程度正確できれいに整えたものの、構成が不十分であるし、整合性がとれていない部分たちがある。重複も多い。かん違いや間違い、未熟さやケアレスミスなどもある。ただし、内容においては、今の段階で必要なものはほとんどすべて盛り込んである。また、タイトルの「システム明細」についていえば、まだ不完全だが、仮説上の自然工学的な数学的枠組みは提示できている。本仮説体系の完成:2009年頃までに:by西山浩一(世界人、春楽天)本書の原稿の一応の書き上げ:2012年6月by西山浩一本書の原稿の加筆・推敲・校正:by 西山浩一本書の原稿の発案・構想・構築・執筆者:西山浩一(C)本原稿と表紙絵の著作権者:西山浩一心脳科学研究所(本原稿は、400字詰め原稿用紙換算で約1000枚の分量がある)本原稿は日本国著作権法ならびに国際法によって保護されている。本原稿のすべての著作権は心脳科学研究所(西山浩一)が保有している。日本国著作権法ならびに国際法は、用紙書面による著作権者の許諾なしに、本原稿を複製ならびに転載することを禁じている。本原稿からの引用の際には、本原稿名を記すことを要する。この「加筆形式#3」は、量がかなり多くなったので、ここに載せるには、7分割しないと納まらない──容量制限があるので──。ほかのサイトにもアップロードするので、総計で手間と時間がかなりかかる。そういうことなので、当分、加筆した一部分を載せることにしよう。6/3:有加筆:このスレッドの継続分にPCでは毎日加筆しているが、このところ加筆した分の一部・・・あちこちに加筆するので、その中の数か所・数パラグラフ(数ブロック)・・・離れた上述、その線上でもうひとつ・・・「意識の同一性」と「人格の同一性」は異なる。心脳科学(仮説)に基づいたその説明:人格の同一性は心器が保つ。それに脳の傾向もいくらか参加・関与する。で、意識の同一性について述べる前に、いくらか解説をなしておこう。心脳科学(仮説)において、「心器~心」と「意識器~意識」について、何度も詳細に解説した。それらの定義sの必須性についても詳しく述べた。そういう仮説sは心脳科学(仮説)が世界初でうち出したのであって、今の世界・この分野でのすべての研究sにおいて唯一であり他には皆無である(心的内容情報スペクトル要素~スペクトル、起源スペクトル、(逆)フーリエ変換的変換《心脳におけるその推測実態については既述》、エネルギー経時変化波動モード意識内容、なども同じくそうである)。一般的には、「意識」、「心」、「この分野でのその他s」、についての考え方と概念、定義が統一されておらず、混乱し混沌としている。そこから、「意識の同一性」と「人格の同一性」は同じ概念・内容である、といったような主張がでてくるのである(他にもそういった事例sは多い。たとえば、「言葉が意識である」、「認識が意識である」、「思考力は意識である(そこには定義の問題もあるが)」、「意図することは意識である(これは定義の問題にもなるが)」、など)。さて、「意識の同一性」は、「人格の同一性」とはまったく異なる。意識の同一性は、意識器が持っており保つ。「自分が自分であるところの意識、他人sと自分の意識はいつも異なり、自分は常に自分だという意味での意識」、それは、意識器が持っており保っている(ここで表現すべくほかの単語を考えてみたが、たとえば担保しているという単語はぬるい。固有・本来的に持っており保っている、ということである)。そこにおいて心器は関係ない。ただし、意識内容に人格についての情報は入る。・・・以上それらに関連して万人が興味をもつであろう内容を述べると・・・まあ、以下は「SF」だとみなしてもらってけっこうだが・・・しかしこういうのをおもしろいと思う人びとがほとんどでせふ・・・中には恐がる人たちもいるでせふが・・・「これは質時間回帰則の言だが『質時間回帰であるからのう』」・・・多くの人たちは「質時間回帰」の意味内容を理解したいと思うでせふ・・・いや思わないでせふ・・・どうせ人間は○○であるから・・・どこをどうとっても質時間回帰でせふ・・・ほとんどの人はこう思っているでせふ「自分が自分であるのは、自分の『肉体、姿かたち容姿、境遇、人種・民族、家族~家系、人々(身近~遠い)との関係、自分の属している団体・組織~国家、現在に至るまでのあらゆるさまざまな体験・経験・言動と現在までのあらゆるさまざまな記憶や身についたもの、才能・能力、身分、地位、立場、性別、心・精神・意識(心脳科学・仮説で定義している意識を除く)、などなどのすべて』による。それらが自分にほかならない」。で、ほとんどの人はそこからさらにこう感じているでせふ「だから、自分が死んだ後、それらがまったく同じ人間であるところの自分がまた生まれてくるなどということは絶対にありえない、絶対にない。よって、転生なんかあるはずがない、転生はない」。ほとんどの人はそう考えそう感じているでせふ――漠然と、にせよ――。だがしかしところがどっこい、心脳科学(仮説)と質の科学(仮説)を適用して考えると、それらはすべて間違いである、という結論にいたる。心脳科学(仮説)において定義される「意識・意識のフィールド・意識の主体」――それは上述の普通一般に用いる「意識」とは異なる。心脳科学(仮説)での「意識」は上述の普通一般に使う「意識」に含まれているにはいるが、その上述の「意識」にはさまざまな意味がごっちゃに混ざっているので、それらを正確に分離して、それぞれを正確に定義して用語をあて用いないと科学的に扱えない。しかも、普通一般には「意識」を、心脳科学(仮説)のいう「意識」の意味には用いていない。・・・それらについては既に詳細に記している・・・。さてそこで、心脳科学(仮説)において定義される「意識~意識のフィールド~意識の主体」――「意識の主体」を「自分という純粋意識」と呼べばわかりやすいかもしれない――「意識のフィールド」と「純粋意識」は異なる。「意識のフィールド」は「意識の器=意識器」であり物理的な存在であり、そこにある働き~機能~性質「意識」が「意識の主体」=「純粋意識」である――それが自分と同じ人が自分の死後生まれたら、それは自分の転生なのである。そこをいくつかのやり方で概算~概念計算~推測・思考すると、「自分の死後、自分は必ず生まれでてくる」、という結論におちつく。それ以外の結論はでてこない。・・・その計算とは・・・「肉体と意識の主体を構成する要素素子sのそれぞれの総数sからでてくる可能なあるいは現実にありうる組み合わせの総数sの比をとるという手法」、「物理学においてはさまざまな対称性がある。同じく多数存在する個別的な意識sはどれもが対称であるはずである。そのばあいは、時間を組み込んだ対称性になるしかない。時間を組み込んだ対称性とは、質時間回帰である。よって、質時間回帰則は実際に働くだろう、という論」、「多数存在する個別的な意識sのそれぞれの意識における質時間回帰は絶対になされなくてはならない、という哲学的原理を設定するやり方」、その他、などがある。・・・いくらか前にもどって・・・つまり自分とは「意識し味わう主体」である自分の「意識」であり、それ以外のすべては、痴漢可能ではなく置換可能であってどうにでもかわりうる――変わりうる、替わりうる、換わりうる、代わりうる――のである。おまけに、「心~心器」も変化する上に置き換えることができるし置き換えられる(心脳科学(仮説)における定義の「心~心器」には意識し味わう働きがない)。しかも、それら置換可能な要素sは、転生していくと、正反対のそれらに置き換わっていく。正反対のそれらだけではなく、どの要素sにも置き換わっていく――それぞれの要素の存在・現実・事象実態確率~存在・現実・事象実態期待値に応じて――。「自分という意識」以外は、そうやって、置き換わっていく。先に述べた要素s『肉体、姿かたち容姿、境遇、人種・民族、家族~家系、人々(身近~遠い)との関係、自分の属している団体・組織~国家、現在に至るまでのあらゆるさまざまな体験・経験・言動と現在までのあらゆるさまざまな記憶や身についたもの、才能・能力、身分、地位、立場、性別、心・精神・意識(心脳科学・仮説で定義している「意識」を除く)、などなどのすべて』がそうやって、置き換わる、あるいは変化する、そういうことになる。それが質時間回帰である。端的にいうと、それらすべての要素sは、「体験」「経験」「記憶」「才能・能力」という範疇にはいる――肉体的要素その他すべてもそこにはいる――。さらに端的にいうとそれらすべての要素sは「経験」という範疇にまとめていれることができる(もっというと、その「経験」は「心的情報~心的内容~意識内容」――それらをまとめて「心・意識における情報」といえるのであるが、そう記すとかん違いされる可能性があるので、そこまでは書かないでおこう)。つまり、多数存在する個別的な意識sのそれぞれの意識における「質時間回帰」というのは、「どの意識も(すべての意識が)あらゆるすべてのさまざまな経験をまんべんなく経験していくことである――経験におけるそれぞれの要素の存在確率~存在期待値に応じて――」ということである。とにかくすべてが質時間回帰する(――ここにはある意味恐ろしい内容が含まれているが、明文化しない――)。・・・そこのところをわかり易く述べてみよう。既にひと昔前、ブログなどにも記しているが・・・こういうシステムを考えてみよう:「すばらしき完璧な映画館」である。それがどういうものであるかというと・・・その映画館で映画を観る態勢にはいると、特殊な装置によって、まず、自分の記憶すべてを、映画を観ているあいだ完全に忘れてしまうのである。自分の年齢・性別や肉体などについての記憶まで忘れてしまう。つまり、自分が何者なのか完璧にわからなくなってしまうのである。思考力までなくなってしまう。そこにあるのは自分の「純粋意識・意識の主体」だけである。で、映画が始まると、特殊な装置によって、自分が完璧にその映画の主人公(あるいは登場人物)になってしまう。記憶から思考力までその主人公(あるいは登場人物)になってしまう。そういうシステムの「すばらしき完璧な映画館」である。で、その映画は、主人公の一生を描いたものだとする。その映画を観ている間は、自分はその主人公なのである。で、その映画が終わって、次の別な映画に移ると(転生にあたる)、今度はその映画の主人公に自分がなってしまうのである。・・・そうやって自分の経験がずっとつづいていく。・・・まあ、いつも主人公になるわけではなく、脇役になることの方が多いわけではあるが――つまりこれは、劇的に素晴らしい人生をおくることになるのは稀である、という意味である――それが、上述「――それぞれの要素の存在・現実・事象実態確率~存在・現実・事象実態期待値に応じて――」の意味である(意味実態の中にある)――で、そういう意味ではそうであるが、常に自分が主人公(先の「主人公」とは意味範疇がことなる)である、というのも事実~確かである――。・・・転生という実態は、そう説明できる。・・・少し前に戻って・・・さてそこで、宇宙が永遠に続いていき、人間のような「意識」をもつ生物が生まれ続いていくとすると――途絶えることはあっても――「自分の転生」と「質時間回帰」は永遠に続いていくのである。・・・で、「宇宙は永遠につづいていくはずだ」、という論も既に記している――「哲学的手法で、あるいはそれにくわえて質時間回帰の絶対性を前提として」、さらには、「マイナスゼロ、ゼロ、プラスゼロ、、マイナス無限大、無限大、プラス無限大、の並びかたの理論から――そこでは、マイナスゼロ、ゼロ、プラスゼロを区別するのがポイントである。さらに、マイナス無限大、無限大、プラス無限大、をも区別するのがポイントである」、などなどから、宇宙は永遠につづいていくはずだ、という論sが成り立つ(既述している)・・・その検証は難しいだろうが、既に何か所かで検証用を含めたいくつかの論sを展開している。・・・・・・そこをいくらか譲歩して、永遠ではなく、人間のような「意識」をもつ生物が生まれなくなるまで――以後まったく生まれなくなるまで――「自分の転生」と「質時間回帰」は続いていくのである、と言い換えてもいいが・・・。・・・そもそも、大宇宙の本源には時間がない――その可能性がある。その立場に立って考察してみよう・・・「外界・物質世界にはなにがあるかわからない」とすでに何度も、その根拠sを示しながら記している。そしてそこには実時間がない可能性があるとも、その根拠sを挙げながら述べている。つまり・・・「大宇宙の本源」の意味内容を時間展開したh(t)に実時間がはいってくる(「意識」が意識し味わうとき)のであって、大宇宙の本源には実時間がないのである。もちろんこれは仮説である(――そのミニ解説:既に記しているように、いくつもの根拠sをもってそう推測することができる――おまけに、それによって量子力学~量子論やEPR問題などにおける不思議な謎sの解明ができ不可思議な謎sが解ける。であるので大宇宙の本源には実時間がない、などということは戯言~妄想であるとは断定できない。・・・ただ、実時間はないが、なんらかの周期のような時間要素sはある。そういう推測が成りたつ――)。で、「(実)時間がないのであるから消えることはない」という論法が成立する。そういう意味で大宇宙は永劫の過去から永遠の未来まで存在するのである――意識にとって――。・・・そういう論法による推測~仮説を筆者はひとつの在り方として立てた・・・・・・仮に大宇宙の本源に時間があるとしても、それまで存在していたすべてが突然すべて消えてなくなるなどということはないだろう・・・どう考えても・・・物質・エネルギーやそれらが形を変えた何かsが不滅である法則は頑として厳としてあるだろう・・・。で、そこで問題になることは、エントロピー増大則であるが、そんなもんも、そこでは吹っ飛ぶ、関係ない。わかりやすくいえば、エントロピー増大も、一時的であり、エントロピーは元に戻る時期があるだろう、ということである。・・・その根拠は、たとえば一例として・・・宇宙がビッグクランチを起こしたとしても、そこにはそれまでのすべての物質・エネルギーやそれらが形を変えた何かはすべて残っているわけであり、たとえばそれが複数衝突して大爆発を起こすと、宇宙の初期に戻る、と考えられる、などなどがある・・・・・・ここらでは物理理論~物理数学も今のところ歯が立たない・・・物理理論~物理数学が歯こぼれを起こすか虫歯になるだけである・JK・・・(研究中)・・・(ナマケ中)・・・・・・今度は哲学的にいってみよう・・・結局、「意識」にとっては、「今」しかないわけであり、「意識」が存在する限りは常に宇宙も「今存在する」と言える。ということはつまり、意識にとって、「宇宙の時刻(時間)は今しかない」、つまり、意識にとって宇宙は「今=常」に存在するのである(――これは屁理屈のようだが一応筋は通っているだろう――)。・・・もうひとつ行ってみよう・・・「宇宙に意識がないと宇宙はないに等しい」という命題は説得力がある――既述――。よって、宇宙が存在する限り意識も存在しないと「意識にとっても宇宙にとっても」、「困る」。宇宙が存在する限り意識も存在しないと意識にとっても宇宙にとっても、「不自然なこと」、「奇妙なこと」、「おかしなこと」、「変なこと」、になる。そういうことがあるはずがない。よって宇宙が存在する限り意識も存在するはずである。で、意識にとって時間は今しかない。ということは意識にとって、宇宙の時間も今しかない。「今=常(つね)」であるから――笑――、宇宙も意識も今・常に存在する、ということになる。(爆)。・・・さらに、ひとつ飛んだ前の論を発展させてみよう・・・「意識の外、つまり宇宙・外界・物質世界、にはなにがあるかわからない――詳細に既述――」。今度はこれを出発点にしてみよう。意識にとって、宇宙(宇宙・外界・物質世界・肉体)は、「エネルギー経時変化波動モード意識内容」として意識し味わわれるだけであって、それら対象が何なのか、それ以上のことはわからない。つまり、意識にとって、宇宙(宇宙・外界・物質世界・肉体)は、「エネルギー経時変化波動モード意識内容」である。で、意識にとっては「今」しかない。「今=常(つね)」である――?――。ということは意識も宇宙も「今」「常に」存在するということになる。・・・εε爆33・・・。・・・・・・ここらあたりには哲学的なふにゃふにゃ論も混ざっていて、いくぶん~かなり説得力に欠けるが・・・結局・・・「筆者はそう信じる」、「そうでないと宇宙はできそこないだ」、「宇宙ができそこないであっては困る」、「宇宙はできそこないのはずがない」、「宇宙はできがよいはずだ」、「宇宙はできがよい――質の対生成と質時間回帰という制約があるのは必然であるが」、「遍く存在する時間を組み込んだ物理的対称性の本源である質時間回帰則が完璧であるためには、宇宙は永遠に続いていかなくてはならない」、「よって、宇宙は永遠につづいていく」、と並べておくことにしよう。・・・さて、さまざまを総合すると・・・結局大宇宙は永遠に続いていく、というしかないだろう・・・(筆者の趣味や個人的希望がそこにははいっているとみなされてもかまわない――検証~実証のむずかしい結論においては、そういう進み方しかないだろう――該問題についての解答を避ける在り方もあるが、そこを乗りこえていくとすれば、そういうことになるだろう)。・・・・・・さてここで、以上とさまざまを総合すると・・・先に述べたそういう結論「『自分の転生』と『質時間回帰』は永遠に続いていくのである(上記などの実態の中で)」――それしか実態・実体の在りようはでてこないだろう。そこ「質時間回帰」から、「他人に為したとおりを将来必ず自分が受ける」、「今の自分とは正反対に将来必ずなる」、という法則・命題もでてくる。(・・・そこのところをよくよく噛みしめ味わいものにしたいものである・・・)。・・・しかもそうでないと――これには哲学と個人的趣味もはいるが――繰り返しの要素もでてくるが――さらに人類のほとんどがこれに無意識において賛成すると信じるが――「そうでないと宇宙の存在意義はない」、「そうでない宇宙は愚かの極みであえる」、「そうでない宇宙はバカである」、「そうでない宇宙はボンクラである」、「そうでない宇宙はできそこないである」、「そうでない宇宙はガラクタである」、「そうでない宇宙はあるはずがない」、「そうでないと人類のほとんどが宇宙に対して怒る」、「だから宇宙はそうなっているだろう」(繰り返しになるが、ここの部分には哲学と個人的趣味や希望を盛り込んでいる――人類のほとんどがこれに無意識において賛成すると信じるが――)。そこで、「質時間回帰」が、人間のような「意識」をもつ生物が途絶えることはあっても生まれ続く限り~あるいは永遠に、続いていくとすれば、そこ「☆質時間回帰☆」の意味内容をよくよく噛みしめ味わいたいものである――「質時間回帰!!!」・・・・・・以上についても既にあちこちに詳細に記している・・・それに関連して宇宙の存在についての哲学なども披瀝している・・・☆心脳科学(仮説)では、心と心的内容というなにかは、心器というフィールド(場)と脳、そこでの情報量子(仮説としてたとえば赤外線)による情報スペクトル要素と情報スペクトルの世界である、と主張している。心脳科学(仮説)では、意識と意識内容というなにかは、意識器というフィールド(場)とそこでの精妙にして極度に複雑なエネルギーの経時変化モード・パターンである、と主張している。少し上の内容からいって――現代物理学はさまざまな種類の場sが存在すると主張している――、そこ心脳科学(仮説)に無理なところはないだろう。要するに、心脳科学(仮説)について述べた上記のそれは、「なんらかの場の存在と物質・エネルギーに伴われるなんらかの実態の世界である」と主張しているわけである。・・・ここで、上述にある重要な個所を強調すると・・・現代物理学はさまざまな種類範疇の多くの場sが存在すると主張している――多くとまではいかないが、さまざまな種類範疇のいくつもの場sが存在すると述べているわけである。そして、必要があれば、新しい場を仮定設定することを躊躇しない。積極的に設定する。心器と意識器についても、それぞれの場を仮定設定することは絶対的な要請の中にあるのである。そういうことで、心器のフィールド(場)、意識器のフィールド、という存在があってもおかしくはない、といえるのである。・・・ところで、心器の場について考察すれば、興味深い内容がでてくる・・・場の量子論を参考にすれば、心器というフィールドは量子を発生させることも消滅させることもできる、という可能性がでてくる。しかも、心器は理活能力と自由意思をもっている。そこから、ほかのところで述べた、興味深い内容を引きだせる・・・ちなみに、超弦理論を心脳科学《仮説)に適用することの可能性については、既に述べている。・・・参考・・・心器と意識器のフィールド(場)と、それらの特殊性――それらは普遍的であるはずだが、ほかの場sと比べると違いがあるという意味で特殊――については別のところに記している。・・・☆・・・注・・・精神的=心器と意識器の活動における実態の中にあること。・・・どこかにも同じ注を書いたが、ここと大きく異なっていたら困るw ・・・で、探しだしてきた・・・「精神的=心的+意識内容的。精神的内容=心的内容と意識内容を併せた内容」まあ、基本的に同じ内容だ。心的内容と意識内容は、内容自体は結局同じ内容になるんだが、「心器~心的」と「意識器~意識し味わう内容的」、におけるそれぞれ働きに完璧に異なる実態がある――前者は能動的、後者は受動的――どこかにより詳しく書いた――ので、両方を並べるのがいいだろう。さらに別なところでは、「精神=心器(と意識器)の活動における実態の中にある傾向」といったふうに記したことがあると記憶している。これは、普通一般に用いる「精神」についてのひとつの解説になっている。普通一般には、「精神」とは「心、意識」という意味にも用いるだろう・・・こちらの方が先だ。・・・以上そういった内容においては、辞書をひいても役に立たないので――日常用語の同語・類語反復になっている(心、意識、などについてもそうだ)――、心脳科学(仮説)と質の科学(仮説)の研究をはじめとして、こうやって、常に考え分析し味わい考えに考えながら書いてきている――それが必要なところでは――・・・筆者は自分で意味内容を味わうのである。味わうという表現がピッタリだ。それをやらないと研究なんかできっこない。・・・たとえば、助詞「が」は定冠詞的働きをもつ、とブログに書いたことがある。すると訪問者が「YRさんの本には「が」は不定冠詞的な機能をもつ、と書いてある――「昔々あるところにおじいさんとおばあさん『が』いました」を例に挙げて――と教えてくれた。そのときは筆者は惑わされた。しかし、どう味わってみても、定冠詞的な働きだという結論になるのだった。今でもそうだ。「が」は、「ほかでもない、その」という意味合いをもっている。YRさんは、英語の文章の初めにでてくる人物などにはまず不定冠詞をつけるので――「ある女性が」といったふうに――、そこからそういう結論をだしたのだろう。自分で助詞「が」の働きを味わっていない。で、そのあと、決定的な根拠――人に説明するにあたっての――を見いだした。そういった昔ばなしでも、最初だけではなく文中にいくらでも、「おじいさんが」「おばあさんが」とでてくる、という実態があるではないか。結局、どこをどうとっても、「が」には定冠詞的な働きがあるということだ。不定冠詞的な機能はもっていない。・・・繰り返しになるが・・・筆者は必要なところでは常にそういうふうに考え分析し味わい考えに考えながら書いてきている・・・めんどくさいがやりがいがある・・・ゆきづまったらほったらかして別なところにいく・・・コーヒーブレイクもそのひとつ・・・筆者の書くものに書き散らし~書き散らかしが多いのはそのためでもある・・・ここにも心脳の現実とクオリアがある・・・(加筆)☆さて・・・さらに、心脳科学(仮説)で、両眼視野闘争(闘争! 一人の人間の中でそれが行われているということは、人間~人間s の本性を映し出している、といえるのかもしれない《JK》。実際には闘争ではないだろう。ここはそのネーミングからの発想をジョークぎみに記しただけである)、気づき、変化盲、閾下知覚、運動誘発盲、などにおける課題・問題についての説明もつく。それらにおいては、まず、心器が着目しているかどうか、というところが、第一の着眼点である。両眼視野闘争、気づき、変化盲、運動誘発盲、については、心器が着目しているかどうか、心器が何に着目(=着眼。「注目」では少し意味合いがずれるところがあるし、「注目」という単語は「着眼」より次元が一段低い用法が似合う。「注意」もそうである。「注意」はさらに現実的な意味において広がって用いられている)しているか、その結果の心的内容情報が意識器に送り込まれる、という実態事象で、すべて説明がつく。(着眼《着目》しているばあい、何に着眼しているか、着眼してないばあい、といったふうに、ばあい分けして考える)。閾下知覚、については、直近上述の中で、意識器に情報が送られない、という実態事象になる。そこでは、心器は着目していないケースが多いだろう(仮に着目しているケースがあるとして、そこにおいても、意識されない=意識器に心的内容情報が送り込まれない)。以上、離れた上述と過去の記述を参考にすれば理解&説明できる。ちなみに:人間の心脳は、実際には見えない対象部分を不完全ながら補って情報構成するという働きをもっている。それについても、以上の中で理解可能である。それは欠けている部分を、既に得ている情報の基本要素sでもって脳~心器が補う、ということである。さらに、心脳ですでに用いたことのある心的内容情報スペクトル(s)やその連続体を用いる――情報が足りなくても――という事象・ケースもあるだろう。(加筆)上記に関連して、人間が何かを思いだすときの実態sとそれら項目sそれぞれについての分析を記しておこう。1)記憶が鮮明ですぐ思い出せるケース:その記憶に関して、情報物質sも必要十分に配備され、ニューロンの配線も必要十分になされている。2)記憶が不鮮明で思い出すのに時間がかかるケース:その記憶に関して、情報物質sも必要十分には配備・供給されておらず、ニューロンの配線も必要十分にはなされていない。このケースでは、一旦は「その記憶に関して、情報物質sも必要十分に配備され、ニューロンの配線も必要十分になされている」状態になった実態が、その後なんらかの原因で、直近上記になったばあいと、最初からそれらが必要十分になされていなかったばあいがある。3)記憶が非常に不鮮明で結局思いだせないケース:ここでは、aほんのわずかな手がかりがあるばあいと、bまったく手がかりがないばあいがある。さらに、c自発的に思い出そうとしたか、d外部から要求されて思いだそうとしたか、というばあい分けも必要となる。「cかつa」では、自発的に思いだそうとしたというところから言えることとして、まず、「なんらかの全体像に当たるレッテル・名札的なイメージ(不完全ながら)がまず想起される」、という実態があると言え、それから、わずかな手がかりが発生する。そこにおける初動は心器である。心器からの情報スペクトル要素~情報スペクトルが脳に送られ、脳の情報物質がそれに共信しその手がかり情報のスペクトル要素~要素sを発生させ、心器との間でやりとりし、そのやりとりが必要なだけつづき理活も進む。そこから全体像に至る、という経過をたどることになる。(このc、d、はその上の「1)」と「(2」にも加える)(ここの分析記述は今のところ自信がない。べつな分析も可能だろう? さらにもっと検討すべきだ)「cかつb」「dかつa」「dかつb」(加筆)さて、心脳科学(仮説)で、対象情報を、脳の中でばらばら――複数の意味でばらばら。対象の情報内容(時間情報、空間情報をも含めて)についても、脳の中で情報処理する個所sと時間sとして時空間的にもばらばら――に情報処理できること、についても既に何度も述べた。それらは心脳の現実を記述できている。同じく、心脳科学(仮説)で、リベットの実験事実についても解説できることを既に記した。笑いやうねるような感情反応(まずは意識器における意識内容についてそれを言うことにする)、は、ふたつ(一応、ふたつを含めて複数ということにしておこう。うなりにおいてはふたつだが)の情報により発生する「うなり」「うなりのような実態」なのではないか、という仮説についても既に述べた。心脳における時間その他についての不思議な実態について、たとえsをもって説明することsをも既になしている。心脳のさまざまについて、種々のたとえsをもって、さまざま解説説明することsをも既に行っている。ほかにも、心脳における現実、心脳における難問sや哲学的難問sに、心脳科学(仮説)で答えることができる、説明解説できる。それらの多くをも既述している。以上、ということでつまり、心脳におけるさまざまな現実sを、哲学的問題をも含めて、☆『心脳科学(仮説)でほぼすべて説明解説できる』☆のである。そういう観点からいっても、心脳科学(仮説)は心脳を正しく記述しているのだろう・・・☆『一般的にはそういう実態にある論を正しいという』☆わけだ。☆『現実によって検証~実証されているといえる』☆のであるから・・・参考・・・以下この記述を置く場所としてこの位置はあまりふさわしくないが・・・あとで構成する時点で考慮しよう・・・あちこちにつぎつぎに加筆していくということもあるし・・・「どっちが先か問題2」:「どっちが先か問題1」は、端的にいうと、知性空間(この説明は既述だが、そのネーミングは異なる)にある知性情報内容と、現実に生きている知的生物のもつ知性情報内容(心的情報内容、意識内容)は基本的に一致する(どちらか、あるいはどちらにも、相互においてのそれらに、欠けsはあるが。ただし、それぞれをすべてそれぞれにおいて寄せ集めるとそれら欠けはゼロに近づく)が、そのどちらが先に生じたのだろう? という謎と設問である。で、「どっちが先か問題2」は、心的内容情報スペクトル要素~起源心的内容情報スペクトル~心的内容情報スペクトルと、経時変化波動モード意識内容は、質的・内容的に同等であるが(相互変換されうるが同等)、そのどちらが先に生じたのだろうか、という謎と設問である。まずは、経時変化波動モード意識内容が先だろう、という思いに駆られる。(ここの記述は困難を極める。伝えたい内容が人に伝わるかどうか)。なぜなら、まず第一に意識内容しか人間(なんらかの知性をも含めて)には意識し味わうことはできないからである。そこから、それが出発点になっているはずだという思いがでてくる。そこからの発想でそういう結論になる。しかし、意識内容となる(に変換される)心的内容を扱うのは心器である。心器に心的内容(情報量子s。それは心的内容情報発受信物質の特性・存在からでてくる)を理解し監視する能力があれば、心器のかかわる内容が先だともいえそうである。その能力とはどういった論理と実践をもっているのだろうか。心的内容を便宜的にh(t)展開して吟味するのだろうか。それともその展開をせずに監視できるのだろうか。ここはまったくもって不思議というしかない。ただし、ディジタル―アナログ関係の電子情報工学においては、対象情報をフーリエ変換したディジタル情報(心器での情報のたとえである)における情報状態での要素成分sと、元のアナログ(アナログとして捉えることのできる範囲にあるアナログ)情報(不完全ながらこれを、意識内容のたとえといっていい)のさまざまな特性・性質との間にある程度対応関係が見いだされており、そのディジタル情報を操作することによって、元のアナログ情報を目的にある程度適った方に変化させる、ということが実現している。そこにおいては、ある程度の監視監督はできる、ということになる(これは先に述べた、監視プログラムとは別な内容をもつ)。それは、心脳においては、心器のもつ理活能力の中の一部としてたとえることもできよう(その電子情報工学において実行しているのは人間の心器である。もちろん人間が作ったコンピュータとプログラムを活用しながらである)。で、その電子情報工学でのたとえから離れて少し前に戻って、結局そこにはそれら双方の情報の完全な一致がある。どちらが先かなどと問うことはできないということになる。そういう結論に至る。それは、双対性(あるいは加えることの、その中の相補性)、という、数学を含んだ科学上の概念実態に納まるのだろうか。たぶん納まるのだろう? 。つまり、ディラック描像のように、ハイゼンベルク描像とシュレーディンガー描像をともに含めた記述実態に対応する世界があるのだろう、ということである。超弦理論においてもそれに対応・匹敵する概念実態がある(この「概念実態」が、現実の実態と一致するのか否かについては《完璧にではないだろうが》、これからの検証課題である)。(加筆)(つづく)☆新しい時空の理論:「ツイスター+ひも=時空の謎解き~日経サイエンス2010年8月号」から引用:「 いま生まれつつある時空の新理論は仮説の段階だし,数学的に非常に難解なので,直接関係している物理学者たちでさえ進展状況を追いきれていないと認める。時空が派生構造にすぎないとしたら,それにもかかわらず私たちにこれほど現実的に見えるのはなぜなのだろうか。理論家たちはまだ説明できていない。 命のない物質から生命が生じるように,時空もどうにかして形作られるに違いない。その過程がどうであれ,それは原子より小さなスケールだけの話ではありえない。サイズの概念そのものが,時空に伴って出現するのだから。すべてのスケールで,そしてどこであっても明らかであるはずだ。それを見る方法がわかりさえすれば。」以上を、心脳科学(仮説)で解明できている――仮説として時空の大枠の原理を提示できている――。:つづく☆「研究者に研究不正をなさないことを学習するよう義務付ける」学術会議、国立大学協会、公立大学協会、日本私立大学団体連合会、の共同声明研究不正問題:「大学や研究所など、組織の責任をも問う方針」文科省つぶやきより:特定の意味で:心器での内容(活動実態)はハイゼンベルク描像に、意識器での内容(発現実態)はシュレーディンガー描像に、それぞれ似ている。さらに、特定の意味で:両方に着目すると、それはディラック描像に似ている。☆新ことわざシリーズ:世界は、無数の質の対生成と無数の質のもつれでできている。そしてそれらは質時間回帰の流れの中にある。悠久の大宇宙無限大河 久遠の質時間回帰の限りなき流れ☆「心は世界の焦点心をとおして意識は世界を意識し味わう自分の言動をも含めて己の体験・経験をも含めてそこにあらゆるすべてがあるという立場は可能すべての心器 すべての意識器を総合すればますます決定的にそういえる」☆心脳科学(仮説)には、10ほどの仮説sが入っている。数え方によってはもっと多い。最高16以上か。それら仮説sがひとつの仮説体系に組み上げられている。ここで、心脳科学(仮説)が反証されたばあいのことを考える。そのばあいには、仮説ひとつひとつ(仮説体系ではなく)を取り上げて検証することになる。それら仮説のうち、重要度が最も高いものから、#1、#2、#3、と番号をふっていくとして、#1と#2、は、心脳の現実を説明するのにどうしても欠かせないと思える。ついで、#3、もそうだろう。本論で述べたように、それらには(も)根拠がいくつもある。根拠の上に仮説sを立てたのである。以下、検討はつづく(ここでは検証ではないが)。(重要度の低い仮説は破棄しても本論には影響はでない)そういうふうに検討していくと、それら仮説sのすべてが反証されるとは思えない。なぜなら:(根拠がいくつもある上に)それらしかないだろうと思う。ほかに在りようがない。ほかになにもない。もちろんこれは、洞察の下、感じ・直観で言っているのだが。これは非科学的姿勢にみえる。しかし、科学の歴史は、仮説の構築をはじめとして、多くが、そのようにして進展してきたわけである。さて、当然やはり、検証が待たれる。☆つぶやき:以下、クオリア・質と大きく関連する:原稿がほぼできあがっているもの(原稿)、と、構想・内容構築がほぼできあがっているもの(書き散らかし)、と、構想がほぼでき上がっているが少ししか書いてないもの、など:質の科学(科学的仮説)転生の科学・哲学(科学的仮説)世界哲学(希望、哲学)宇宙は永遠に続いていく(かどうか)(科学的仮説)論理地図(科学哲学的仮説)物理数学・数学とは何か(これは論理地図とも大きく深く関連する)世界理解の哲学(科学的仮説)歴代の哲学を採点する(心脳科学・仮説にもとづいて)運命のノート(遊び? 現実? (=仮説という意味))定義と名づけ方から見える展望そのほか以上の中には、それらのうち複数を統合した方がよい内容をもつタイトルもある。☆心脳科学(仮説)(それが正しいとして)の立場で、哲学的問題や科学上の問題、その他などにおいて、多くの設問を立て、それに解答することができる。それらは、心脳科学(仮説)の理解度テストともなる。心脳科学(仮説=仮説sの体系)には、10ほどの仮説が入っているので(数え方による。最大16以上か。重要度の低い仮説は破棄しても本論に影響はない)、そこでは、その仮説たちのどれどれを用いての解答かをも併せて問うと効果的である。(筆者がそれらの解答をだしている設問もあるし、その途上にある項もあるし、まだ答えをだしていないものもある。まだ手がけていない項目もある。しかし、当然解答はでてくる)☆前回の分(「意識とクオリアの外側」)にさらに加筆があります。つぶやきから:心脳科学(仮説)から、さらに大胆な仮説としての、この世界の記述もでてくる。それは、超弦理論による、この世界の記述、と一致しそうである(超弦理論をそういうふうに構築できそうである)。(私は、超弦理論を、私の研究に必要な程度学んだ)そこで、超弦理論を万物の理論とするためには、それを心脳科学(仮説)に適用できるように構築すべきである、ということになるだろう(人間や心脳などのことまで記述できないのなら、万物の理論とはいえない)。それらは、超弦理論の構築に制限をもたらす。そのことは、超弦理論がこの世界・大宇宙・森羅万象を、現実どおりに記述する担保・保証になると考えられる(超弦理論は数学に多くを頼っており、多様性が高いので、構築にあたって迷う要素sがある。そこにおいて、迷うことなく超弦理論を構築できる。心脳科学がその羅針盤となる)。↓(矢印の向きは、難しい。反対でもいいようだ。下から読んでいただきたい。一番下を元にしたばあいと、一番上を元にしたばあいでは、矢印の向きが反対になる)こういうことを考え記述するのも、心脳である。そこらのところも解説・・・(以下略)・・・↓(矢印の向きは、難しい。反対でもいいようだ。下から読んでいただきたい。一番下を元にしたばあいと、一番上を元にしたばあいでは、矢印の向きが反対になる)こういうことを考えるのは、心脳である。心脳科学(仮説)で、そこらのところも解説できる。↓(矢印の向きは、難しい。反対でもいいようだ。下から読んでいただきたい。一番下を元にしたばあいと、一番上を元にしたばあいでは、矢印の向きが反対になる)以下は、心脳科学(仮説)とも深く関係がある内容で、「意識とクオリアの外側」についての論にもなっています。つぶやきから:1:昔むかし、考えたことだが(精密に注釈や対論などもつけたいところだが、ここではそれを省略):2:「この世界に、森羅万象~その一部、を意識し味わう人間のような意識をもつ存在がいないと、この世界・大宇宙はないに等しい」(ついでに記しておこう「それと同時に、この世界・大宇宙がないと、意識をもつ存在も存在しえない(かもしれない)」)3:「よって、そういう存在がいるようにこの世界・大宇宙はできているはずだ(映画と映画館には観客の存在が必須であるように。観客がゼロだと確定していたら、映画も映画館もつくられない。それに反する例が趣味人によってなされたとしても、その趣味人は観客でもある)」4:(ここまでは哲学であり、私はそれが好きだ)5:「そして、明らかにそういう存在(たち)は居つづけてきたし居るしこの先も居つづけるだろう(途切れることはあっても―一応これも記)」「それに先立って、この世界・大宇宙も同じく過去から未来まで存在」(これは事実だ)(哲学的ゾンビについては別なところで論ずる)6:「これから先も永遠にそれは続いていくだろう(途切れることはあっても)。そしてたぶん永遠の過去からも続いてきているだろう」(この後者はなくてもよいが)(これは希望であり、哲学であり、科学的仮説だ)7:「そこでは、質の対生成、『質のもつれからまり融合離反融合・・・』、質時間回帰、が起こりつづけ《い》ていくだろう」(これは希望であり、哲学であり、科学的仮説だ)8:「以上は、『意識の存在の必須性・必須絶対性』からの、主に哲学的な論の展開だが、私はそれが好きだ。科学だけではそういうことはできない」9:以上は、何十年も前に考えたことで、7年くらい前にブログにも書いた。つぶやき:相対論での空間について、遊びで少し言及した個所に加筆:「虚空間・素空間」と筆者が表現した空間は相対論では否定。○心脳科学 超弦理論 超ひも理論 クオリア 質の科学 世界哲学◯1年以上前に公表した心脳科学(仮説)の初版には、一切手をいれないで、ネット上公表サイトにそのまま置いている。もちろん私のPCの中でもそうである。PC上では、原稿を書いていくたびに新しいファイルとして記録してきている。前回の分に加筆があったので、載せます。つぶやきより:有加筆:この文は、少し変なんだが、こう書くと要点がわかる:推測による「脳における情報構造」からいって(言って、行って)、心・意識・脳の全体を矛盾なく説明できるのは、心脳科学なる仮説体系しかない、今のところ。(推測による「脳における情報構造」は、心脳科学なる仮説体系の中にはいっている)つづき:推測による「脳における情報構造」が非常に重要なので、そういう表現になった(実際は、心・意識・脳における情報構造だが)。。仮説体系の仮説は複数である・仮説たちの体系。世界情勢がますます緊迫化してきているように見えます。金融や経済を含めてそうでしょう。今までもそういった方面は大変だったともいえますが、この先はさらに困った事態に至りそうです。さて、そろそろ、心脳科学(仮説)の全体像をここに載せたいと思いますが、その前に:つぶやきより:推測による「脳における情報構造」からいって、心・意識・脳の全体を矛盾なく説明できるのは、心脳科学なる仮説体系しかない、今のところ。心・意識・脳の全体の現実を説明できるのは、心脳科学なる仮説体系しかない、今のところ。リベットの実験事実を説明できるのは、心脳科学なる仮説体系しかない、今のところ。この世界の本質的なことごとや現象的なことごと、あらゆる現実を説明できるのは、心脳科学なる仮説体系しかない、今のところ。話したり書いたりすることなどは、簡単な内容では、反射的な脳の活動でありうる。しかし、それが複雑・高度な内容、今までにない内容になると、もうひとつの心が、その活動を監視し指導する。世界人さて、ここの皆さまが、学問研究などにおける慣行と常識や法律などに従って、「優先権を保護する―つまり最初の発案・独創者を尊重する」―のであれば、私はとっくにここに「心脳科学(仮説)」をエントリーしていたことでしょう。既に一年以上前、「心脳科学(仮説)」を公表しているし、それ以前にも私はネット上に、それに関係した内容でかなりつっこんだことを書いています。しかし、世界の風潮をみるに、警戒してここには詳細を書かなかった。今や、研究不正をなすと後がとんでもなく大変なことになるという常識が社会一般に浸透してきたし(ここの部分は、かの細胞についての実験事実・成果はなかったといってはいない)、文科省も研究不正はあばいた上で罰する方針を表明し実行に移す途上にあるので、そろそろ「心脳科学(仮説)」をここに載せたいと思っていますが、なんというかかんというか、はっきり書きたくはありませんが、書かないわけにいかず、こう書くしかないわけで、可能性のある新しいなにかの誕生を妨害することだけは断じて避けなくてはならない。そんなことをするのは卑怯・卑劣そのものにほかならず、その人自身を汚すことになる(あとが大変だろう。それはクオリア・質時間回帰の一種でもある)。それよりも自分の説をぶつけるのが正道でしょう。ともかく、自分の論を展開できない人はコメントしない方がいいでしょう。好意的であればそこは問題はありませんが(ここに参加すると、健康を害するという代償を支払わねばならないというのは、断じてあってはならないことだ。それは傷害罪を犯したこととなる)。さて、とはいえ、「心脳科学(仮説)」は可能性を秘めた仮説体系であり、検証が必要です。反証されたらSFということになるでしょうが、その一部分は生き残るかもしれません。世界情勢などをみていると、いろんな意味で早くここにエントリーしなくては、と思います。茂木さんは、クオリアマニフェストを『高らか』に謳いあげ、『知的に誠実な』研究者の参加を激烈に呼びかけて、ここを開設したのですから、そこらのところの充分な配慮が必要でしょう。いずれにせよ、ここは有益で大変ありがたいサイトです。クオリア・質研究関係のつぶやきよりI have been translating the summary of the"mind-consciousness-brain science(hypothesises-system)"in japanish into engleeeese one.The translation can not be done without my explanations because it includes new concepts which did not exist before.So,I continue doing it by myself.クオリア・質時間回帰:8月16日現在:世界情勢がさらに緊迫化してきています。それもこのスレの趣旨の中にあり、クオリア・質時間回帰で説明がつくでしょう。さて、心脳科学(心・意識・脳を総合した科学)の翻訳は進んでいます。「クオリア・経験の質」関連のつぶやきから:I think so,and it makes me crazy.The past contribution of you that was about logic was interesting.心脳科学(仮説)で、科学による意味論をも構築できる。心脳科学(仮説)で、科学による言語論をも構築できる。引用元を明記すれば、引用できるわけです。☆このスレのトップ(再掲):私は40年前後前からさまざまな研究を断続的に独自にやってきているのですが、一番世に問いたいのが「質の科学(仮説)~世界哲学」です。それが今現在の世界に必要な科学というか思想・哲学なのかもしれません。そう遠くないshourai sekai ha kaimetu ni mukaisou(それは、質の科学~質時間回帰則と、その他いくつかの立場からの予想)ですから。そうなるかどうか断定はできませんが。もうそんなことどうでもいいとも思いますがね。「心脳科学(仮説)」はその一部です。☆このスレの最初に書いたように、世界情勢がさまざまに深刻化してきています(クオリア・質時間回帰だとみなしているわけですが)。その先、世界の状況がどうなっていくか注視に値します。生活環境がよく保たれた上での、研究だということはいうまでもありません。できるだけ早く心脳科学(仮説)の概要を英訳し公表してからここで講義を始めるということで、翻訳に努めていますが、まだその途上にあります。ここでの心脳科学(仮説)講義はその後になります。☆ 引用元を明記すれば、引用できるわけです。つぶやきから:加筆:心脳科学(仮説)の中で、その検証のための実験sについてかなりな程度言及している。さらに、心脳科学(仮説)で、量子力学における最大の謎である現象を象徴して現す「二重スリット実験」の実態を仮説として説明できる。心脳科学(仮説)内の一片:意識する意識内容を、知性で選択できるケースがある。選択できないケースもある。意識内容そのものには知性は介入できない。つづき:その表現・記述には誤解される面がある。その面は、また別の問題である。次元が異なる。「意識内容そのものに知性が介入できる」という面がそれであり、それまで否定されるという誤解が生じうる。心脳科学(仮説)で、科学による哲学を構築できる。心脳科学(仮説)で、科学による形而上学を構築できる。心脳科学(仮説)で、一元論と二元論をも統合できる。心脳科学(仮説)で、唯心論と唯物論をも統合できる。ツイッターのクラウド的利用、心脳科学(仮説)で、一元論も二元論も統合できる。心脳科学(仮説)で、唯心論も唯物論も統合できる。学問についていっても、同じ表題で何かを唱えている人たちの間でもその内容は異なるし、任意のそれを学んでいる人たちの間でもその理解は違ってくる。心脳科学(仮説)では、そこらのところもすっきりと把握できるだろう。離れた訂正:科学哲学→科学による哲学(科学的哲学)心脳科学(仮説)によれば、大陸合理主義(論)もイギリス経験論も、両方正しい、と解説できる。不可知論にもいろんな立場がある。ぼくが以前ネット上で用いた、不可知論の領域、という用語は、単に、知ることが難しい領域、という意味で用いたので、不可知領域とした方がすっきりするが、まちがいではない。質時間回帰はつづいていく呪われた星、地球、SF:Spesial FactSF:Shocking FactSF:Sciense Factカオス理論は、因果的に決定論に立つ立場が主流だが(量子論をも含めて。あるいは量子論ははずして)、ぼくがネット上などに書いた立場は、それを超えた(越えた)それになる。心脳科学(仮説)で、科学による哲学・その他いくつもの分野を構築できる心脳科学(仮説)で、「現象判断のパラドックス問題」の構造解説もできる。心脳科学(仮説)で、「水槽の脳問題」の構造解説もできる。心脳科学(仮説)で、「哲学的ゾンビ問題」の構造解説もできる。心脳科学(仮説)で、「逆転クオリア問題」の構造解説もできる。心脳科学(仮説)で、「コウモリであるとはどのようなことか、という問題」の構造解説もできる。心脳科学(仮説)で、「マリーの部屋問題」の構造解説もできる。心脳科学(仮説)で、科学による形而上学をも構築できる。心脳科学(仮説)で、科学による哲学をも構築できる。心脳科学(仮説)で、唯心論と唯物論をも統合できる。心脳科学(仮説)で、一元論と二元論をも統合できる。つぶやきから:これも当然→研究不正がネット上で指摘された件も調査対象:ネットで指摘された研究不正をも調査することを大学や研究機関に求める方針が文科省で始動した。罰則付き。☆ 引用元を明記すれば、引用できるわけです。#3「引用元を表記しないとあとで大変なことになる」について「引用元を表記しないとあとで大変なことになる」と以前書いたことに関連してつぎのエントリーを載せておきます。さて、今までに何度も何度も現実に起きたことからいって、「他人の考え(アイディア)」を、引用表記をせずに用いると、後が大変なことになる、ということは常識ですな。その代表的な件として、以下でそれが確認できる。論文(研究についての発表を目指した記述体系)において、「研究不正」として糾弾されるものとしていろいろあるが、ここでは、その視座からこれに着目する。「研究不正」に該当するもの(その一部):「盗用」=「他人の考え(アイディア)、作業内容、研究結果や文章を、適切な引用表記をせずに使用すること」(この「盗用」については、今、世間の話題になっている、あの細胞に関わる研究論文に関してのやりとりの一環として、提出された不服申立書から抽出引用した。(「(アイディア)」は私の加筆である))そういった観点からいって、人は常識的かつ普通に(これには、後で大変な事態にならないやり方・在り方で、という意味を多く含むが、それ以上の説明は難しい)行為・言動するのが最善である、ということになりますな。(この小文は、「その細胞に関わる実験事実・結果はない。それは不正だ」、といっているわけではない)加筆:心脳科学(仮説)の中で、その検証のための実験sについてかなりな程度言及している。加筆:さらに、心脳科学(仮説)で、量子力学における最大の謎である現象を象徴して現す「二重スリット実験」の実態を仮説として説明できる。☆ 引用元を明記すれば、引用できるわけです。To be honest,or not to be honest:that is the question.Check out all my description on the Web.Check out all and all descriptions on the Web and others.世界人☆「クオリア・質」の科学(仮説)による、特定の事象の解説をなしてみます(質⊃クオリア。文字化け? クオリアは質に含まれる)。それは、「Disneys Frozen - "Let It Go" Multi-Language Full Sequence のサイト」における人々のコメントたちの内容を分析した上での解説である。その成り行き:その歌が好きになって、何度も聴いていて、さらにそこでの多くのコメントたちを眺めているうちに、コメントしたくなった結果そこにコメントした(それを後ろの方に付記する)。そのコメントが、そのサイト参加者にとっていくらかの慰めになればいいなと思い書いたものである。付記にあるように、「Disneys Frozen - "Let It Go" Multi-Language Full Sequence のサイトで、いがみ合いがあったので、こんなコメントをしてみた、数日前に」という文言でその経過の一部がわかる。そこでのいがみ合いの発生源はふたつあって、ひとつは、25言語しか用いられていないということであり、それによってそれ以外の言語の人たちは不満をもつということ、もうひとつは、25言語の中での優劣の争いである。さてそこで:その私のコメントの中で、「Minds of people who are being satisfied are going to lose some kind of those beauty.」の「some kind of those beauty」と、「Minds of people who are being unsatisfied are going to get some kind of beauty.」の「some kind of beauty」(こちらには、「those」はつけない。なぜなら外部から入ってくるからである。「some kind of beauty from the outside」である。以下、そこでも略記して「some kind of those beauty」を用いる)は同じ内容・概念を指している。「some kind of those beauty」とは、「クオリア・質」時間の一種である。「some kind of those beauty」を失っていくと、美を感じる資格や能力が失われていく。「some kind of those beauty」を得ていくと、美を感じる資格や能力を獲得していく。ただし、後者が前者の歌を美しく感じる資格や能力は健在であり強化される。そういう解説ができるところの、事象とその考察、の経過を辿った内容を今こうして記している。以上、そのサイトにおける「クオリア・質の科学(仮説)」の、内容、適用例、実態、などを説明しました。付記:Disneys Frozen - "Let It Go" Multi-Language Full Sequence のサイトで、いがみ合いがあったので、こんなコメントをしてみた、数日前に。With corr.:in a website where the "Disneys Frozen - "Let It Go" Multi-Language Full Sequence" has been uploaded☆Hi everybody,Im an(the)alien...XD lol...The aliens spellings and grammar in english are as I wrote in my last comment...XD lol...But Im going to be an earthperson ,So I want to study english.Now, in such situation ,Im going to correct it.With corr.:Hi everybody,Im an(the)alien.XD lol.I love the "earthic".You know it?...All of the 25languages on the earth are very ugly all for my ears gahahaha...My language is like this "♪ bgdvzgbdzgggzzzvvvdddbbb... ♪”...(I call languages on the earth "earthic",you see)......Oh no!...but...but...and...and...I love The earthic(s)...And I guess those songs of languages which are not in the vid must be more beautiful than ones in the vid. Because 25languagess people would be satisfied in a sense.Minds of people who are being satisfied are going to lose some kind of those beauty.Reverse,Minds of people who are being unsatisfied are going to get some kind of those beauty.By the effect, songs of the people except 25languagess people must be more beautiful than songs of the 25languages,in the viewpoint of each peoples mind-quality.Its only my conclusion.And adding words,in a sense,such a matter is caused by The commercialism......from UFO(from UFO & United Friends Orgaization(UFO))...XD lol.☆茂木さんのクオリア・マニフェストに「7、アジテーション」、という項目があります。つまり、クオリアMLはストレス解消の場なんかではなくて、研究の場でありクオリア問題を研究する人たちが集うところ、ということははっきりしてますな。クオリア・マニフェストから、ぼくはここにたどり着いたわけだから。ぼくも、クオリア・マニフェスト「7、アジテーション」、に触発され煽られて参加したわけです。以下引用:「7、アジテーションThe Qualia Manifesto 革命が近い。単なる科学革命ではなく、人間存在の拠って立つ基盤自体が変化し、私たちと世界の関係自体が変化するような革命の足音が聞こえはじめている。 人間とは何か、人間はどこから来てどこへ行くのか? このような究極の問いに答えるための鍵となるステップが今や見えてきている。 人間とは何かという問いに答える鍵は、私たちの心の中のクオリア、及びそれを支える主観性の構造の物質的基礎を明らかにすることである。 クオリアや主観性の起源を明らかにすること以上に重要な知的チャレンジは存在しない。 私たちがクオリアや主観性の起源を理解した時、その認識が私たちの人間観、世界観をどのように変えるかはわからない。来るべき認識革命の後で私たちの迎える状況がどのようなものになるにしろ、その可能性が今や開かれていること、そして、認識革命に至る道筋は論理的な議論とち密な思考と知的な勇気によって開かれうることを再確認しておこう。 クオリアの問題の解明には、論理的厳密性、開かれた感性、そして、今までにない思考のプロセスに踏み出す、知的勇気が必要である。 クオリアの問題の解明は、一個人では不可能である。自然科学者、数学者、芸術家、宗教家、心理学者、社会学者、全ての分野の優れた知性が共同し、総合的文化運動を起こさなければ、クオリアという人間の存在にとって核心的な概念の解明は可能にならない。 今や、勇気あるステップを踏み出す時機が熟している。 知的に誠実であり勇気を持つ者達よ、「クオリア」の解明のために団結せよ! 」:以上、引用春楽天・世界人