180729:加筆形式#3(途中):質・クオリアの科学(仮説)~心脳科学(仮説)~世界哲学
筆者がネット上に書いてゐる(載せてゐる)記事sの多くは、主要な言語sにおいては、翻訳されておるようじゃす。その翻訳は大変そうじゃす――さらに加筆形式になると翻訳も読むことも大変じゃろうす――しかるにできるだけ早くアップロードした方がよいでせふと筆者は考へておるのじゃす――。特定の専用ソフトを用いれば、そこらの困難は大きく減じられることは周知じゃろうす。で、一応仕上げたら(とゐってもさらに加筆していくじゃろうすが)告知しませふ(これは過去にも書きもうした)。(――筆者が書いている記事sは、書きなぐりのようなものであって、どれもが不完全であり、これからも加筆と訂正をつづけていきもうす――――それと・・・学校で学んだ内容以外については、本スレッドの論などを研究するのに必要な程度(かそれ以上)の習得しかしていないのじゃす。なにもかも知っているなどということは全くありもうさん)。・・・筆者の研究とウェブへのアップロードも極めて大変じゃす。しかるに、筆者は苦しひながら、やり甲斐・生き甲斐を感ずるのでさういふことを続けておるのじゃす(――本スレッドなどの記述量は膨大なので、読み返すことも大変であり、重複や間違い、いいかげんなところ、加筆修正すべき個所sも多いでせふが、そこらについてはご了解あれかし――)。・・・ともあれ、筆者が英訳せずとも済み、ありがたひことじゃす。よき時代になりもうした。それらをぜひ有効・有意義に活用してくだされ。・・・過去に、心脳科学(仮説)の概要を、英訳していたのだが、主要な言語sにおいて、翻訳されていた・いるとなれば(ありがたいことに「ブロックチェーン的になる」)、翻訳の必要がなくなったので、その英訳を途中までで打ちきっているのじゃすた・・・本スレッドには、心脳科学(仮説)本体の一部、質の科学(仮説)、世界哲学などと、それらに関連した内容を載せておりもうす。本スレにある設問シリーズは千差万別じゃす。「運命のノートシリーズ」も書いてありもうす。「チャプター加筆形式」の記事シリーズでは、これがチャプター#3じゃす。「チャプター加筆形式」の記事シリーズとしては、#1~#2~#3のほかにも、膨大な文章を書いている(3月25日・今加筆中の#3は、#882である)筆者は、このシリーズをいつ書かなくなるかわからないので――人間はいつ死ぬかわからない、という意味をも含めて――すべての人間が、なんにおいてもそうじゃす――、メモのような書きつけをも載せておきもうそう。☆毎日あちこちに加筆しているのじゃすが・・・さて、今回は・・・1月13日の分が膨大じゃったので、読んでいる・翻訳している方々が消化不良を起こさなひように、少し載せることにしませふ・・・といっても大量に載せることもありもうすが・・・☆グチを一言・・・読み返さず新しい内容を書くことはかなり気楽にいけるんだが、本文を読み返して加筆やら推敲をなすことは、意欲と調子がでてノリノリの状態にならないときわめてむずかしいケースがかなり多い。筆者の得意技の寝ぼけたような心脳の状態では、そういったことは大変だ。そういうばあいはうんざりすることもけっこう多い。自分で好きでやっているにもかかわらず「これを読み返して手を入れるのか。いったいなんの罰ゲームだ! 」といったところである(笑)。・・・つひでに・・・筆者は、ウェブ上に載せる文章も、だいたい一発殴り書き、がほとんどで、読み返して加筆訂正することはまずはないままに、載せている、という実態にありもうす。加筆訂正推敲はそのうちやろう、ということなんじゃらす。それでなければ、筆者の身体も頭も、もたない、といったところなので、ご了承あれ。何も書かないよりはマシだと思し召しあれかし。(・・・ここでコフィーカフェブレイクを・・・――「オボシメシ」とは、新種のウメボシと白ご飯を併せた、ウメボシおにぎり(おむすび・地域によっては)のことではないのじゃらすが、そうオボシメシしてウメボシおにぎりを食べるのも一興でせふ――;・・・ついでに・・・「おにぎり」、というのは、手でおにぎりを作る様子からの具体的なネーミングで、「おむすび」というのは、ご飯粒をくっつけてひとまとめにする(結ぶ)、といった感じで、ちょっと抽象的なネーミングになっている、と思う。「おむすび」も、手でそうやってご飯粒をくっつけて「ひとまとめにしている様子」からきている、と解すれば、「おにぎり」と似てくるが――)☆☆☆(上略)・・・ちなみに・・・自由意思・意志は、個々それぞれの心器によって、その「理活内容」や「理活傾向(心的傾向。精神性)」は異なる。なぜそうなるかというと、もともとの心器sはどれもが同じなのであるが、それぞれの心器がある(宿る)脳の特性や身体の特性~その人物の境遇・被教育過程・学習過程、自分で意図して自己教育をどの程度やったか、などなどによって、自由意思・意志の発達鍛錬程度とその中身が異なってくるからである。(・・・ここらの冠詞の用い方はむずかしい、そういう個所sがある・・・)それをたとえて言えば、ある意味、コンピュータのプログラムの違いのようなところがある、といってもいいが、コンピュータには自由意思・意志はないし、もたせることはできない。もちろんコンピュータには意識もないしもたせることもできない。当然、ロボットにおいても同じである・・・、ある範囲で人間のように見えるロボットが、こちらの動きに反応して眼sにあたるカメラsをもつ顔をこちらに動かす、こちらの質問に、まるで人間と同じようにこたえる、こちらに人間のように質問してくる、握手に応える、などという実態があるとしても、そのロボットには「心」も「意識」もない、「心器」も「意識器」もない。(参考:・・・そこに「意識が生じる」と言う研究者の方々がおられるが、それは「意識」の定義が、本論におけるそれと異なっており、本論においてはそれは「意識」ではない。それと同じ意味内容で言って、もちろんそこには「心」もない・・・)「知性」については定義次第だが、人間のもつ「心器」による「理活」にあたる論理活動はそこではなせない(ただし、ニューラルネットワークの概念などを用いたAIなどにおいては、ある程度、「脳」の働きの一面と似た能力をもたせることができるようであるが)。人間のもつ「心器」と「意識器」と同じ「フィールドs」を、それらにもたせない限り、そういうことが言える・・・。・・・・・・ここに、人間以外の動植物において、「心器」と「意識器」はあるかないか、という謎と設問もでてくる・・・さらに単なる物体にはどうか、という問題――謎と設問――も一応載せておこう・・・・・・載せたついでに、それについて少し論じてみよう(既にどこかにある程度書いているが)・・・・・・そこでは、情報発受信物質が、そこにあるか否かという実態がまずは問題になる。それは、それらにもある。ということは、それらに知性体は宿れるということにもなりそうである。「人間以外の動物」においては、知性体はそこに宿れるし、かなりの知性をその動物に発揮させることはできるだろう。植物においてはその度合いは、より低くなるだろう。で、単なる物体について言えば、そこにある情報発受信物質は貧弱であるし、そこには、神経や神経のような回路・脳や脳のような部分もないので、人間以外の動植物とは大きく異なる実態にあることになる・・・。・・・「自由意思・意志」についてもうひとつ述べておこう・・・量子論・量子力学が、自由意思・意志があることの証拠(――必要条件だが――)となる。ことばを換えていうと、量子論・量子力学は、「自由意思・意志」があることの担保となっている、といえる(――それは必要条件であるから、それだけでは不十分ではあるが――)・・・。で、そこには量子論・量子力学的確率があるわけである――それは任意の個人がどういう言動をなすか、という実態にかかわる確率である――。その量子論的確率は量子情報の一種といえるだろう。任意の個人(どの個人について言っても。すべての個人sの各々)における「心器」のもつ「自由意思・意志」とその量子論的確率との関係はどうなるか? ・・・近似的に言って、任意の個人の「心器」においては、その確率は働かない。その確率は外部に捨てられる・放出される(個人によってその度合いは大きく異なるだろう)――そう予想される。・・・任意の個人専用の量子論的確率があるかもしれないが――ある程度はあるだろう――、それは個人によって異なる。しかも、その中で、外部に捨てられるそういった確率も個人に応じて、捨てられる度合いが大きく異なるだろう。それに、既に何か所かで述べているように、充分に学習し鍛錬し成長した「心器」のもつ「自由意思・意志」によってその確率を覆すこともできる(その度合いも個人に応じて異なる)。そこらあたりなどから、「充分に心器を鍛錬した個人の『心器』においては、その確率はほとんど働かない、ケースがある」、「ある程度そういう確率――言動についての――があるとしても、それが働かなかった分のその確率は外部に捨てられる・放出される」、――そう予想される、という結論に至るわけである。・・・ここで、そういったふうに、全ての「心器s」の量子論的確率のある程度の分が外部に捨てられたと仮定しよう。そこでは、当然、捨てられなかった確率も考慮するとする。A・そこから全ての「心器s」の、そういった量子論的確率をなんらかに総計して、「ある特定の対象における事象sの確率の総計は1」の定義のもとに、その確率を導きだすとしてみよう――外部に捨てられなかった分の確率も織り込んで――。そこから何がでてくるだろうか? それを考えるに当たってまず考えるべきことがある・・・個人により、1・「そういった確率に従う傾向の高い人物――1~1よりは小さい――」、と、2・「それが低い人物――ゼロ~ゼロよりは大きい――」、が存在するだろう。で、そこから・・・、「2」の人物が捨てたそういった確率を「1」の人物たちが受けとる、ことになるのではないか、という結論がでてきそうである。(加筆)・・・上にかなり加筆したので、以下と上述との関係のバランスがくずれたが・・・さて、以下は、この直近上の内容に密接に関連する内容なんだが・・・一部そこに述べてあるが・・・外部に捨てられたその量子論的確率はどうなるか? そういう謎と問いをたてることができる。外部に捨てるといっても、「(1)なにかと量子もつれがないと捨てられない」のか、それとも捨てられたその量子情報(ここでは、量子論的確率)は「(2)場の中に潜在するようになる」のか、「(3)場の中でなにかと結びつく」のか、「(4)そのほか」なのか、どうなのだろう? ここでは一応、「(2)場の中に潜在するようになる」、としておこう。――既にどこかに既述しているように、このばあいの「場」というのは、個性をもちひとまとまりになっている個々の心器の場(局所場)sのすべてが属している全体(非局所)場、ということになる――。ということは、いずれにせよその確率は、(消滅しない限り――消滅することはないだろう――)、他の個人のだれかの心器に働きかける、ということになるのだろう。そういうふうにして、上述「A」が満たされたばあいに、その確率は、1・消滅する、2・消滅しない、そのどちらになるのだろう? それは、「1」だろう。なぜなら、そこでの条件が満たされたのであるから。つまりそれは、質の対消滅の一種だろう。もっと原理的に説明すれば、それらは、「質の性質、質の対生成・対消滅、質時間回帰」の中にある性質である、と言えるだろう。(加筆)以上に関連して・・・なんらかの保存則があるということは、その保存則におけるなにかの対象が見えなくなっても、それは対象の場の中に潜在するようになるか、ほかのなにかに合体(もつれをも含めて)するか、なのだろう。(加筆)・・・以上、本論に関連する臨時奔放コラムなり・・・それはあくまでも「奔放」であるす・・・「奔放」であるからして、その確実性についての保証はありもうさぬ・・・で、ここで日本語のクオリア研究に転じると・・・ここでの、「奔」は「思うがままにふるまう」といった意味で、ここでの「放」は「外に向けて放ちだす」といった意味である(それぞれ他にも意味をもつが)・・・以上、「本邦」において「奔放」に初公開じゃすた・・・ところで・・・日本語というのは、ダジャレるのにも打ってつけであるす・・・ということで、以上で、日本語のクオリア研究の「一端」を「一旦」閉じもうす・・・(加筆)少し前に遡る・・・そこでは、心器sの対称性(過去に述べた)――どんな人においても心器は同じであること――がなくなってしまうが、心器の対称性は、心器というハードウェアと、その初期状態だけにあって、人間sの間の心器sの対称性は、意識器の質時間回帰によって時間を組み込んだ実態において遂行されるというか保持される・・・。(加筆)さらにいくらか前にもどって・・・以上のように物理学では(も)数学を用いるわけである――それについてはもっと加筆すべき事項sがあり、整理も必要だが――。それさえ解れば・・・モチは餅屋さん、ケーキはケーキ屋さん、食べるのは筆者、オリンピックはアスリート諸氏・専門のスポーツパースンs、観るのは筆者、というのは理に適った常識なので、適材適所、学問研究においてでも、すべての分野の研究や学習を自分だけでやる必要はない、という結論に至る。いちいち何から何まで自分でやることは不可能なのは明白でもあるし。すでにあるものs、でき上がっているさまざまsを、活用・利用しないと、前に進むことはできないし、そういった利用・活用はすべての人間があらゆるすべての分野で無数に行っている(――自由意思・意志についての解説においても、それに関連した内容を既に述べている――)。そういうことで、何かの研究をなすばあいでも、その研究に必要なほかの分野s領域sについては、その研究に必要な程度(かそれ以上)に学べばいいわけであるし、人間にはそれしかできないということをここではっきり認識したということにもなる。筆者も、心脳科学(仮説)、質の科学(仮説)などの研究においては、そういう姿勢・やり方で進んできている――そういったことは過去に何回か述べている――。さらに・・・自然科学と数学との関係や、数学を自然科学において用いる意義・意味、それらの実態の概観・俯瞰図鳥瞰図などを、既に離れた上述で把握しているわけであるから、本論の研究すべてにおいて、さらにどんな研究においても、上述の姿勢で、気楽に進めるというものである。(加筆)・・・ここで、お茶かおちゃけ一服のひとときを・・・・・・ここでドリンクブレイクのふたときを・・・さてここからしばらくはSFの世界に遊ぼう・・・意識の「外界」=「意識の外(そと)。あらゆるすべての物質世界・人間の肉体を含めて」――そこには何があるかわからない・既述しているように・・・。人間の心器は、「外界」の情報として外界から心的内容情報スペクトル(→h(t))の元なる情報スペクトル要素~情報スペクトルを受けるのみである(ここでは、心器のなす理活については考える必要はない)。そこ「外界」に何があるかわからない、これこれがあるとはいえない。強いていえば・・・情報スペクトル要素~情報スペクトルを取り出せる情報のデータベースがある、としかいえない。で、人間もそのデータベースの中のデータである、ということになる――ここでの立場に立つとそれ以上のことは言えない――。そこにおいて、「心器」と「意識器」はどうか?(1)そのデータベースの中にある(2)そのデータベース中にはない。心器と意識器は、それとは範疇の異なる存在であるそのデータベースの中には時間も空間もない(潜在はしているが)。つまり、外界においても心器においても、実時間はあらわれていない。h(t)展開して初めて実時間も空間もあらわれる。それは、(3)意識器においてのみそうである(4)現実もそうだ(4-1)意識器に現実があらわれる(4-2)外界はそのままでは現実ではないさてここで上述の延長として、二重スリット実験について考察してみよう・・・そのデータベースの中には時間も空間もない、ということで、二重スリット実験に説明がつく。なぜなら、h(t)展開(意識器においてなされる)して初めて時間も空間もあらわれるのであるから。さらに、いまだ未解決のEPRパラドックス問題について考えてみよう――解決された、つまり、非局所性うんぬんの方が正しい、という見方もあるが、厳密に言うとまだ未解決のようである――・・・それは、二重スリット実験についての考察と同じく、そのデータベースの中には時間も空間もない、ということで説明がつく。h(t)展開して初めて時間も空間もあらわれる。つまり・・・ボーアなどコペンハーゲン派の主張「時空は非局所性をもつ。光速より速い伝達がある」、アインシュタインの主張「光速より速いものはない。時空は局所性で成立している」、その両者とも正しい、という結論を心脳科学(仮説)から導きだせる(両者とも物理学的には正しく、そのパラドックス問題について、まだ決定的な結論はでていないようである)。・・・そのことは、心脳科学(仮説)の正しさを裏づけている、ともいえるだろう・・・。「心器」と「意識器」における「情報構造と情報処理の在り方」から上のことが言える。以上において重要なこととして・・・外界・物質世界(意識のそと)が、人間に見えているそのままであるとみなすと、「二重スリット実験」も「EPRパラドックス(既述)」も、タネのないマジックや宗教における奇跡など(既述)も、解明できないし説明がつかないのである・・・――・・・ということは、特定の条件下・特定の領域で相対論は成り立つ、ということになりそうである・・・・・・「二重スリット実験」については、以上で問題なく説明がつく・・・・・・「タネのないマジックや宗教における奇跡など」についても、以上によって問題なく説明がつく・・・――で、心器はそのデータベースから情報を受ける~取り出すわけであるが、心器がそのデータベースに干渉できるのだろうか?つまり・・・心器はそのデータベースを書き換えることができるかどうか? 1・できる1-1・完全にできる1-2・部分的にできる1-3・ほんの少しの部分についてできる2・できない以前にも直前でも述べたが、マジックの中にはまったくタネのないものsがある。いってみれば・・・奇跡が起きているマジックsもあるのである。ほかにも宗教における奇跡やそれに類する事象・事実などもある。それらについては、「非常に発達した心器~知性的存在」がデータベースを書き換えたと理解すれば納得がいく。あるいは、データベースを書き換えないまでも、「非常に発達した心器~知性的存在」が、データベースから得た情報を操作した、という可能性もある。とすると、心器~知性的存在は、そのデータベースの外に存在する可能性が高い、ということになるだろう。たとえば、人間が地上にあって、自分の服の襟首をつかんで持ち上げることができないように――人間はジャンプはできるが、それは地球との間で力~運動量のやりとりがなされるものの、すぐ以前の状態に戻るということである。それは一時的には書き換えが可能、あるいは得た情報の操作はできる、というたとえにもとれるが、すぐに元に戻る、と。それがすぐに元に戻らないのであれば、心器~知性的存在は、そのデータベースの外に存在する、ということになりそうである。・・・参考:・・・ここでは心器~知性的存在が、そのデータベースの内部にある可能性を完全に排除するわけではないが――たとえば、コンピュータとそのプログラムにおいて、プログラムを書き換えるプログラムというものもあるわけである・・・ただしそういったプログラムを組むのは外部にいる人間であるが・今のところ・・・。・・・近年、脳のもつ機能~システムの一面を模して工夫sを加えたディープラーニングの手法が発達してきている。桁外れに組み合わせの数が多い囲碁においてですら人間の最強者を打ち負かすところにまで至った。しかしそれも基本~出発点は人間がなすプログラムにあるわけである・・・。さらに、ディープラーニングの手法によって、プログラムにたとえばモーツァルトの作品を学ばせ、モーツァルトの作品のような作品をつくることもできるようになってきているようである・絵画においても同じく。くわえて、自動運転自動車、機械翻訳、さまざまな分析、などなどにも活用できる。繰り返すとしかしそれも基本~出発点は人間がなすプログラムとそのシステムにあるわけである・・・その人間は大自然が創った、と表現できる。そこ「人間が創られる過程」には人間の自由意思・意志はない、と一応思われるが・・・? 、宇宙~大自然のなんらかの知性~意志・意思が人間を創り、そのなんらかの知性~意志・意思を人間が受け継いでいる、という可能性もある――よって、人間には自由意思・意志はある、と――。・・・ここではテーマを、ひとまず置き換えてしまった、「そのデータベースを書き換えられるか否か」、から、「自由意思・意志」の問題へと・・・。もっとも、その「データベース」を書き換えるには「自由意思・意志」の存在は不可欠であろうから、当然の過程を踏んでいると言える。で、その「自由意思・意志」がデータベースを書き換えることができるかどうか、に戻ろう・・・:以上、参考・・・参考から戻って・・・つまり結局は、上述「1-3・ほんの少しの部分についてできる」なのではないだろうか。「運命破りのパラドックス」(それについても既述)もそこに属するのだろう。つまり、心器がその人物についての「データベース」を書き換えるということである――ただしこれは、その人物の運命を記したノートが、正しくその人物の運命を記している、つまり、その人物についてのデータベースにおけるデータを正しく記述しているとしての話しである――。で、「自由意思・意志」で言動することは、そのデータベースに変化を与えることになるだろう? ――それは、言動が自由意思・意志によらないばあいとは異なってくる、と――。そこで、「強大な自由意思・意志」は、世界に変化を与えることができる(そのデータベースをなんらかに書き換えることができる)と言えそうである。ただし、質時間回帰則を乗り越えることはできない。少しは質時間回帰の流れに逆らうことはできるが(たとえとして、フラッター)、大きく基本的な質時間回帰の流れ(たとえとして、ワウ)には逆らうことはできない。その前者も結局質時間回帰する――つまり「いいとこ取り」はできないのである。――これについては既述――機械的回転系をもつ音響機器などにおけるワウフラッターでのたとえも既述。・・・ワウとフラッターについて、どっちがどっちだったか忘れてしまった。ここでは、細かい変化をフラッター、大きな変化をワウとしている。それは似た要素があるので、たとえとして持ち出しているだけである――。・・・ここで、さらに考えられる可能性をつけ加えておこう・・・そのデータベースのデータではなくて、経時変化波動モードh(t)の段階で、それを書き換えるという「可能性」もないとはいえないだろう――これは、よりむずかしそうであるが――。・・・もうひとつつけ加えておこう・・・先に、外界・物質世界(意識のそと)には何があるかわからない、と記した。しかし、こう考えると、どういうことになるだろうか・・・「なにか」を見るとする。すると、その「なにか」の形状を認識することができる。次に、目をつぶって(つむって)その「なにか」に触ってその形状を認識するとする。それらふたつの認識はだいたい一致する、といってよいだろう。なぜ一致するのだろうか・・・その「なにか」を目で見て形状を把握した経験があるからだろうか。さらにはそれに先立って、人生を生きてきて、無数のさまざまな形状sの把握~認識を積み上げてきているからだろうか。で、視覚に関しては、経験がない「なにか」の属性(の要素)は把握・認識できないようである? ――臨界年齢までに経験していないとそうなる? ――臨界年齢と呼ぶ? ――だったか――、といったような知見(~事実)があったと思うが、少なくとも、赤ん坊は手で触って物の形状を把握・認識することはできないだろう――成長してある段階に達するまでは――。ということは、触って物の形状を把握・認識するということは、心器と脳で、情報を組み立てて、それをなしている、ということになる――見ることによってなすそれも結局はそれと同じだが――。以上から言えることとして・・・やはりなんと言っても、外界~物質世界(意識のそと)には何があるかわからない、というところに落ち着くのではないだろうか――ここは完全に自信があるわけではないが――・・・・・・・・・・・・この後(あと)、その問題認識を数日間保っていて考えた結論として・・・いややはり、触覚による形状認識においても、脳~意識のその時点までの経験・学習――視覚や触覚などを通じての――により貯えられたデータやデータ処理法を基に形状把握~形状認識の在り方・ソフトウェアを構築しているはずである。それによって形状把握~形状認識を行っているのだろう――情報発受信物質の情報と結び付けて――。よって、「やはり、外界~物質世界(意識のそと)には何があるかわからない」、という結論に落ち着く」と言えるだろう。・・・さらに言うと・・・外界――意識の外(そと)――にあるデータベース~データには、どの感覚――視覚を含めて――を用いても、同じ形状把握~形状認識に落ち着くデータが納まっている、ということでもある。しかも、それが、直近上の「脳~意識のその時点までの経験・学習――視覚や触覚などを通じての――により貯えられたデータやデータ処理法」と連動するように――情報発受信物質の情報と結び付けて――、この世界が構築されている、という結論に至る、と思われる。・・・ここで、上述「脳~意識のその時点までの経験・学習――視覚や触覚などを通じての――により貯えられたデータやデータ処理法と連動するように、この世界が構築されている」というところにある原理を考えてみよう・・・その原理として・・・この世界に存在する具体的な「あらゆるすべてのパターンs」は、現実的にも数学的にも無数にあるが、それらはそれぞれがいくつもの範疇に分類できる。で、「帰納からでてくる普遍――原理~規則~法則――と原理~規則~法則(たとえば物理数学的な)が近似的に一致する」、「演繹からでてくる具体的パターンs(たとえば物理数学による)と現実のそれらが近似的に一致する」、というところだろう。・・・なぜならそれらは「近似的に含む」~「近似的に含まれる」の関係にあるしかないからである。この原理は、「なぜ自然科学の分野で物理数学などが適用できる――使える――のだろう?」という謎と設問への最も上のレベルでの解答ともなる。・・・これに関してはより詳細に別なところに記している。・・・(「まず、その要約を:」で検索すればでてくる。このパラグラフよりずっと前にある)・・・。ただし、物理数学で記述できない領域は深く広いだろう。・・・繰り返しになるが、上述「――情報発受信物質の情報と結び付けて――」というところが最重要だろう。(加筆)・・・さて、以上の流れからいって、ここに哲学的な主張――名づけて「世界哲学」の一部――を載せるのは、理に適っていると思うのでそれをなそう。特に次元についていくつかの解釈をなしたので、それらは以下とつながりがある・・・それは過去にあちこちに何度か書いたことであるが・・・以下の後ろの方は過去に記したそれらとは趣を変えている・・・まず、「この宇宙・世界に意識のある存在がないと、この宇宙・世界はないに等しい」という哲学的立場は有効である――この宇宙・世界そのものや、そこにおけるさまざまを意識し味わう存在がなかったら、この宇宙・世界はないに等しい――、と。それに対して反論はいくらでもできる。しかしそういう立場は意味・意義があるだろう(これはフニャ論とまでは言えないと思う。哲学的原理として成立するだろう)。ついで、「よって、この宇宙・世界に意識のある存在はあるはずであり、実際にあった」となる――人間はそれに当たる――・・・ほかにもあるだろうが・・・さらに、「意識し味わう存在があっても、意識し味わう対象が皆無であれば、あるいは加えることの・時間もなければ、意識する存在はないに等しい」と言えるだろう。よって、「この宇宙・世界はあるはずであり、事実としてあった」と展開される。以上それらは同時に成立する命題であって、どちらかを先にしても意味~意義が減ぜられる。(繰り返しになるが、以上、それはフニャ論とまでは言えないと思う。哲学的原理として成立するだろう)・・・以上について、「映画と観客」をたとえにして過去に何回かわかり易く? ・・・自画自ー賛・JK・・・(精一杯がんばって)過去に書いている・・・で、なにかの宗教の聖典では、天地創造において「初めに言葉ありき。その言葉が光よ在れかし・・・」などと言い放ち宇宙ができていった、といったようなことが書いてあったと思う。(・・・筆者の記憶によればそうなんだが・・・ここにあとで加筆→それはまちがっていた。なにかの創○記によれば「初めに神は天地を創造された。~~~~。神は光あれと言われた。こうして光があった。~~~~。・・・略記:そして言葉で次々と天地を創造していかれた・・・」といったような内容だった。それとは別に、なにかの新○○書のヨハ○の福○書に「初めに言葉ありき。言葉は神とともにあり、言葉は神であった」という文章があった・・・。・・・しかし、以下記した内容に変更を加える必要はない、という間違い方であったのはラッキーだった・笑・・・しかし以下にほんの少し加筆する)。それによると、宇宙開闢以前、そこには知性だけがあって、その知性の掛け声とともに・・・掛け声によって・・・宇宙の誕生が始まった、ということになる。その「知性」が「意識」をもっていたのかどうか、確認する術はないが、心脳科学(仮説)に則ると、「知性」と「意識」は別ものであるので、そこにおいて場合わけして、ふたつのケースを検討してみよう・・・1・そこには「意識」はなかった、というケース2・そこに「意識」はあった、というケース「2・」であれば、宇宙・世界に先立って意識はあった、ということになる。しかし、そこには、無理がある。「宇宙・世界」がないのに、どうやったら「意識」と「知性」が存在できるのか。そこでは、「意識」と「知性」が存在できるなんらかの存在があった、ということになる――なにもないところには「意識」も「知性」も存在できない、という、説得力のある理屈によって、そう言えるだろう――。それ「「意識」と「知性」が存在できるなんらかの存在」は、宇宙・世界の一部としか言えない・宇宙・世界の一部であると言える。しかも、「意識」と「知性」も宇宙・世界の一部であるとも言える。そこでは、そのどちら(意識と知性の)が先に存在を始めたか、という謎と設問が発生する。ということで、少し前に述べたとおり、「以上それらは同時に成立する命題であって、どちらかを先にしても意味が減ぜられる」という結論にやはり至る。「1・」であれば、文字通り「意識はなかった」ということになる、しかし、なんらかの知性は存在していた、ということになる。それに関しては、上述「2・」であれば、「2・」以下で検討した内容と同じ経過をたどり同じ結論――意識と知性の存在できるなにかが存在し、そこに意識と知性が存在していた――に至る。さて、以上その「ある宗教」の主張についての考察は、ここでは余技であることにしよう。ここで、本題に戻る・・・今現在、この宇宙と世界は存在し、「意識のある存在(と知性)」も存在する(現在までに、この宇宙と世界は存在しつづけてきているし、「意識のある存在(と知性)」も存在しつづけてきている。・・・後者は途絶えることがあったかもしれないが、それでも尚そうである)。さて、そこに次元の話しを絡めよう・・・「意識ある存在」――ここでは人間としよう(その例外なる存在の可能性については既に何度か述べている)――がさまざまな対象sを「意識し味わう」ためには、「心器」が必要である・・・心脳科学(仮説)によれば(ただし、「意識器」によって共振し直接的に「意識」するという可能性もある。それについても既述している。心器での共振によって対象sを直接「認識(心器が着目する対象の内容を心内で理解しそれを自覚すること)」するという可能性も否定できない・・・・・・ここでの「意識」と「認識(心器が着目する対象の内容を心内で理解しそれを自覚すること)」の使い分けに注目――それらの定義s・心脳科学における、から必然的にそう使い分けることになる。(それについては過去にしつこく何度も述べている・・・本論においては、複数の対象内容sについて、気が済むまで繰り返したり、一部重複した内容sを書いたりしてきている。本論は今までに、どこにもなかった論なので(当然ながら、周知で慣用的な内容や常識的なものは除く)、それくらいしてちょうどいいと思う。それに今までの段階では、本論の草稿は雑記のようなものであるし)。そういった定義sがないと心脳についての議論は(も)錯綜し混乱し不毛になる――ふにゃふにゃ、ごちゃごちゃ、ぐちゃぐちゃ、どろどろになる――。・・・で、それらの定義sは、今まで確認してきた限りにおいて、現実を正しく反映しているようである・・・。さて、心脳が対象情報を処理するには、先に検討したとおり、現実の時空4次元のほかに少なくとも6次元が必要らしい。超弦理論でも同じく、現実の時空4次元のほかに巻き上げられた6次元が必要である(もう1次元を付けくわえる理論もあるが)。超弦理論は万物の理論の候補と言われており、それによってこの宇宙・世界のすべてを記述できるのかもしれない。しかし、人間にとって非常に肝心な「心脳」について記述できないなら、万物の理論とはいえない。よって、超弦理論は心脳科学(仮説)に適用できるように構築すべきでせふ。――(ただし、「自由意思・意志」は存在する)――。よって、超弦理論における「巻き上げられコンパクト化された微細な6っつの次元という次元は現実として存在するだろう、という結論にまたまた至る。それら6っつの次元の意味・意義は、既に説明したとおりである。・・・以上、この長いセクションを重複を含めて言葉を換えてまとめると・・・哲学的世界観~超弦理論(仮説)~心脳科学(仮説)、それらの絡みあった抽象的観念的世界描写は現実に対応しているように見える・・・しかもその前に論じたとおり(離れた上述で)、科学的と思われる立場で検討しても、同じことが言える、という結論に至っている。・・・ということは、☆「超弦理論に必須である「巻き上げられコンパクト化された微細な空間6次元は、心的内容~意識内容の世界でもあるだろう」☆、ということになるだろう。・・・わくわくしてくる・・・惑惑する方もおられるだろうけれども・・・・・・ただ、超弦理論において、心器を記述することについては困難は少なさそうに見えるが、意識器をDブレインで構築できるとして、経時変化するh(t)をどう記述できるのか、心器についてより、より難しい検討課題となるだろう? ・・・。・・・その上で、「超弦理論――仮説だが――」で、「宇宙・世界のさまざま」と「心脳の世界」まで記述できるとしても、そこにはそれでは記述できない領域が大きく広がってあるだろうし、自由意思・意志は存在する(だろう)・・・。・・・物理数学で記述できない領域は大きく深いだろう(既述)・・・・・・さて、超弦理論ではなく、場の量子論によって、心脳活動の特定のレベルにおける物理的にして自然工学的説明が可能だろうか? ・・・・・・それを論じる前に、まず以下を述べておこう・・・場の量子論ではなく、その出発点にある量子力学での、心脳活動の特定のレベルにおける物理的で自然工学的説明は、「心器と脳において情報量子sがやりとりされる」、「心器が形成生成した基本的単位時間分の『心的内容情報つまり心的内容情報スペクトル』をもつ情報量子sの一団(つながり・関連ある一群。クラスター)を意識器に入れる」、「意識器でそれが経時変化波動モード意識内容というエネルギー実体・実態となって発現する」、と記述できるわけである。量子力学によっては、今までのところ、赤外線が「心的内容情報量子」の第一候補である。そのほかの光子(電磁波)も候補に挙げられる。そのほか、素粒子物理学におけるさまざまな粒子sも検討対象にできる(超弦理論から予言できるところの、なんらかの高次元振動をもった弦sもその候補に挙げられる・今現在の物理学で扱っている粒子s以外で)。で、「心器というフィールド」と「意識器というフィールド」の記述のモデルとしては、過去にさまざま述べている。それらふたつのフィールドを量子力学で記述できるだろうか? ・・・できないこともなさそうである。心器のフィールド(場)と意識器のフィールド(場)――心器と意識器においてはフィールドと表記しよう――、「心器のフィールド」は「情報量子s」を扱い「理活能力」をもち、「意識器のフィールド」では経時変化波動モード意識内容――そこでは励起状態が低く?量子化(粒子化)までは至らずにフィールドが超絶複雑にゆらぐ? のだろうか? ――もしくは、情報量子sが波として発現するフィールド、――そういうフィールドsが存在する可能性もあるだろう。さらに、今までにまだ予言も仮定もされていない粒子(s)――なんらかの場(s)が励起されて生じる量子(s)――しかも心的内容情報量子として活用できる量子(s)――つまり脳内にある物質が発受信できる、あるいは、虚数的な空間で、それらが発生する、――そういった新量子(s)が存在する可能性は否定されてはいない(これは、上述「(超弦理論から予言できるところの、なんらかの高次元振動をもった弦sもその候補に挙げられる・今現在の物理学で扱っている粒子s以外で)」をも含めて述べている)。で、以下、繰り返しの要素があるが・・・、以上の量子力学による記述に対応するところの、超弦理論での記述、における強みとして、今までに発見されていない情報量子(s)を容易に想定できる? ことがある。そこにおいて、意識器のモデルはどうなるか・・・Dブレインで可能だろう・・・、という点については他のところに述べている。・・・それらについてのほかの可能性や難点についても既述している。さて、いくらか遡って・・・「場の量子論によって、心脳活動の特定のレベルにおける物理的にして自然工学的な説明が可能だろうか」という設問に進もう。場の量子論での仮説の立て方について言うと・・・「心器のフィールド」と「意識器のフィールド」が存在し、しかも、それぞれが個別であり、それぞれが特定の有限な範囲にあり、それぞれが一体性を形成している、しかも、そういう二種類のフィールドsが、それぞれそうとうな数存在すること(しかし人間の総数よりは少ない――ここでの「人間の総数」の定義は、非常に~無限に長い時間の間に生まれてくる「意識と知性をもった生物の総数」ということである。「素子的なものsの可能な組み合わせからでてくる総数」という実態も考えられるが、それらの中で、実際に生まれでてくる「意識と知性をもった生物の総数」といった意味での定義であるともいえる)、そして、そういうフィールドsが可能であること、が要請される。「心器のフィ-ルド」においては、粒子(量子が粒子として現われた実体)が現われ扱われること(と扱われ消滅する――そのフィールドに没し、単なるエネルギーとなるか、対消滅しエネルギーとなるか、という事象実態(が予想される))が要請される。「意識器のフィールド」では、波動(量子が波として現われた実体・実態)が現われ、それらさまざまな波sが重ね合わせの原理で重ね合わさって、超絶に複雑で玄妙な波動実体・実態を発現することが要請される。以上は、どの物理学(量子力学、超弦理論など)で記述するにしても、共通である。8・05分ここから加筆(・・・以下このカッコ内の記述は、上に加筆したために迷子になってしまった・・・過去にもそういったことはある程度多い・・・参考としてここにそのまま置いておこう・・・場の量子論による、以上に対応する記述においては、まず、それらふたつのフィールド――心器と意識器のそれら――の記述がやりやすそうだ、といえる。情報量子については、量子力学の項で述べた内容と同じことがいえる。・・・参考)(加筆)(・・・以上の検討・追究について、完全に自信があるわけではない・・・当然今のところ推測~仮説にすぎない・・・)(・・・付記・・・上にも記したが、「意識による直接意識体験」という例外がある可能性についても過去に述べている)(加筆)(つづく)以上、そこらにもまだいくつもの研究課題がある。・・・ではここで、コフィーブレイクのひとときを・・・さて、ここに脳科学・脳神経科学における興味深い事象・事例sの説明――心脳科学・仮説による――を載せよう。:対象情報が不完全になる事例s、たとえば「盲視など」、を心脳科学(仮説)で説明できる:(1)脳~心器における情報は、スペクトル要素型であり、対象情報を基本 的成分要素(要素成分)に分解した形態で扱われる。(2)脳に欠けたところが生じると、対象情報において、対象情報について、それら基本的成分要素 (要素成分)sに足りない部分sが生じる。で、それら基本的成分要素 (要素成分)sを統合するのは心器である。心器がそれらを心的内容情報スペクトルつまり心的内容のひとコマ分にまとめ上げる。よって、そういう条件下では、欠けたところのない一般的な対象情報の状態・内容、に比して「奇異に思える不思議な実態」が生じる。注:単位時間ごとの心的内容のひとコマ分sが、次々に継続して意識器に送り込まれ、重ね合わせの原理で、エネルギー経時変化波動モード意識内容h(t)となって、意識器が意識し味わう。:以上、注・・・参考:そういう「奇異に思える不思議な実態(心的内容、意識内容において)」をもつ人物が、それを「認識すること」と「意識し味わうこと」は異なる別な事象である。ここは複雑である。まず、「奇異に思える不思議な情報実態」についての情報処理は脳で行われる。「心器」がその情報に着目していたとすれば「心器」もいくらかその情報処理にかかわる。その情報処理――単位時間ごとに継続していく――が単位時間ごとに終わると、それら「心的内容情報の一団s(クラスターs。関連ある一群s)」はつぎつぎと「意識器」に送りこまれ、意識し味わわれる(「心器」がそれに着目していたばあい)。その意識し味わわれる一瞬手前の時点で、「心器」がその情報が「なにか変だ」と認識するかどうか。その情報に着目していて、それを監視する一段上の知性が「心」器にあれば認識できる可能性はある(――コンピュータではそれに対応するプログラムはある。しかしそのばあい一段上ではなく同列であるが。といっても、作動序列は異なるので、一段上といってもいいだろう。そこでは、「一段上」の意味が異なる――)。それから「意識器」で意識し味わわれる。その情報を「意識器」で意識し味わった時点でも、「意識器」自体は「なにか変だ」という情報処理・認識はできない。単に意識し味わうだけである。「意識器」自体は意識し味わうだけの働きをもち、心的な情報処理にはかかわらない、というか心的な情報処理はできない。そこにおいて、「意識器」からなんらかの情報のフィードバックが「心器」にあるか否か。あるいは、それを監視する知性が心器にあるか否か、その仕組みはどうなっているか。筆者の「感じ」としては――こういったレベルにおける判断は「感じ」というしかない――、「心器」は「意識器」をモニタしているのではないか、ということになるが・・・・・・。どうやってモニタする? なんらかの量子sによって? ・・・コンピュータのばあいは、モニタ画面とその表示内容をモニタするのは、人間である《意識のたとえとして》。先に述べた意味においてではなく、コンピュータの演算部とソフトウェアがそれをモニタすることもできるが、それは意識のたとえとはならない・・・で、ここで、次の観点から「意識器からなんらかの情報のフィードバックが心器にあるか否か」という問題を考えてみよう。筆者の視覚においては、左右の目による映像の色調がいくらか違っている。たまにそれを認識する――筆者は、消費エネルギーを減らすために、片目をつぶって(つむって)作業などを行うことがあるから気づくのだが――右目の方が暖色性がいくらか強い――ついでに、片目だと意識エネルギーの消費が減る、と実感する。活動時間が延びるのである・・・ここにも心脳における研究課題がある。「意識エネルギー」とは何か。それは単に脳の生理的エネルギーだけとは思えないと実感する――・・・元に戻って・・・それは、デジタルカメラにおける、メーカーの間での色調の違いのような感じの差異でありそれと似たようなものだ。そこでの検討課題はこうである。その色調の違いに気づくのは、心器である。どういう機序でそれに気づくのか? 1・心器で情報処理している段階で気づくのか? それとも、意識器からそれに関するなんらかのフィードバック情報があって、それによって心器が気づくのか? という謎と設問、それが検討課題である。両目を開けているときはそれには気づかない。片目での映像を比較してはじめて、それに気づく。もし、「1・」であれば、両目で見ているときにも気づけるはずだとまずは考える。それを確認するには、左右の視野において、それぞれ及ばない領域の映像の視覚像で比較しなくてはならない。今、筆者の好みの電球色LED照明と昼光色蛍光灯スタンドの元でこれを書いていて、外は薄暗く、という状況で、その比較をやろうと試みているが、比較する外界にある対象の壁などを揃えることができないので、今いる場所ではそれは不可能だ。・・・残念・・・場所をほかに移して、そのうちにやってみようと思う。筆者は超めんどくさがりなので、・・・とはいえ、そこでの工夫を考えついたので、それでやってみたら、やはり、色調が違うようだ。外視野の極限的な部分での比較になるので、ぼんやりとしかわからないんだが、そういう結論に至った。何人かの人にもそれについて訊いてみよう・・・ということは、・・・しかし、なんの解決にもならない・・・はじめの設問にまた戻るだけだ。(加筆)(上述「何人かの人にもそれについて訊いてみよう」について言えば・・・ほったらかしである・・・・・・ここですべって転んで転調して・・・ほったらかし・・・・・・彫ったら菓子・JK・・・彫ったら菓子というのは、物語・ヘンゼルとグレーテルだったか・・・、お菓子の家などのことを言うわけである・JK・・・お菓子で家をつくって、さらにそのお菓子を彫って彫刻的な感じのいい建物にするのである・JK・・・で、その彫ったら菓子を食べ過ぎると太るのは言うまでもない・JK・・・つまり彫ったら菓子は別名メタボ菓子とも言う・JK・・・・・・ここでさらに滑って転んで転調して・・・彫ったら菓子を食べ過ぎてメタボになった人を「デブチンスキー」と言う・JK・・・なにやらロシア人のような名前であるが、デブチンスキーの多い国は、端的に言うと、養豚所である。ガメリカとか養豚場になっている国はいろいろある・・・・・・さてそこで・・・デブチンスキーの多い国は、そのあまりの重さで沈没していくのである。つまり快楽をむさぼる人間の多い国は破滅に向かうということである。それは質時間回帰である・・・・・・ということで、今回のクオリア追究のギャグジョーク超短編は「質時間回帰」で締めることができて、ほったらかしではなくて『ほっとしたぁ』・・・(It's a)『hot shit ah』・・・JK・・・・・・)・・・かなり加筆したので、以下、これは迷子になってしまったが、そのまま残しておこう:「以上、そこらのところは一般化して考えて、可能性sを並べあげることしか今のところはできていない。そういう研究課題もある。」:以上・参考・・・離れた上述、その線上でもうひとつ・・・「意識の同一性」と「人格の同一性」は異なる。心脳科学(仮説)に基づいたその説明:「人格の同一性」は「心器」が保つ。それに「脳の傾向性」もいくらか参加・関与する。で、「意識の同一性」について述べる前に、いくらか解説をなしておこう。心脳科学(仮説)において、「心器~心」と「意識器~意識」について、何度も詳細に解説した。それらの定義sの必須性についても詳しく述べた。そういう仮説sは「心脳科学(仮説)」が世界初でうち出したのであって、今の世界・この分野でのすべての研究sにおいて唯一であり他には皆無である(――心的内容情報スペクトル要素~スペクトル、起源スペクトル(起源情報スペクトル。固有情報スペクトル)、(逆)フーリエ変換的変換《心脳におけるその推測実態については既述》、エネルギー経時変化波動モード意識内容、なども同じくそうである――)。一般的には、「意識」、「心」、「この分野でのその他s」、についての考え方と概念、定義が統一されておらず、混乱し混沌としている。そこから、「意識の同一性」と「人格の同一性」は同じ概念・内容である、といったような主張がでてくるのである(・・・他にもそういった事例sは多い。たとえば、「言葉が意識である」、「認識が意識である」、「思考力は意識である――そこには定義の問題もあるが」、「意図することは意識である――これは定義の問題にもなるが)」、などである・・・)。さて、「意識の同一性」は、「人格の同一性」とはまったく異なる。「意識の同一性」は、「意識器」が持っており保つ。「自分が自分であるところの意識、他人sと自分の意識はいつも異なり、自分は常に自分だという意味での意識」、それは、「意識器」が持っており保っている(――ここで表現記述すべくほかの単語を考えてみたが、たとえば「担保している」という単語はぬるい。「固有・本来的に持っており保っている」、ということである――)。そこにおいて「心器」は関係ない。ただし、「意識内容」に人格についての情報は入る。・・・以上それらに関連して万人が興味をもつであろう内容を述べると・・・まあ、以下は「SF」だとみなしてもらってけっこうだが・・・(筆者は「SF」をいろんな意味に使うが)・・・しかしこういうのをおもしろいと思う人びと・ワクワクする人たちがほとんどでせふ・・・中には惑惑したり恐がる人たちもいるでせふが・・・(・・・・・・「これは質時間回帰則の言だが:『(上述のように)惑惑したり恐がる人たちもいるじゃろふが、結局は薬局ではなくて・JK・質時間回帰内にそういった人たちもいるのじゃから、将来は反転するのじゃ。質時間回帰じゃ』」・・・・・・・・・多くの人たちは「質時間回帰」の意味内容を理解したいと思うでせふ・・・いや思わないでせふ・・・どうせ筆者をも含めて人間は○○であるから・・・それを含めてどこをどうとってもなにもかにもが質時間回帰内にあるでせふ・・・一時的には質時間回帰から逃れることはできるものの、それはかなり短期的であり、長期的には結局質時間回帰に向かう・・・それについては既に詳述している・・・・・・)さて、で、ほとんどの人はこう思ってゐるでせふ「自分が自分であるのは、自分の『肉体、姿かたち容姿、境遇、人種・民族、家族~家系、人々(身近~遠い)との関係、自分の属している団体・組織~国家、現在に至るまでのあらゆるさまざまな体験・経験・言動と現在までのあらゆるさまざまな記憶や身についたもの、才能・能力、身分、地位、立場、性別、心・精神・意識(心脳科学・仮説で定義している意識を除く)、などなどのすべて』による。それらが自分にほかならない」。で、ほとんどの人はそこからさらにこう感じているでせふ「だから、自分が死んだ後、それらがまったく同じ人間であるところの自分がまた生まれてくるなどということは絶対にありえない、絶対にない。よって、転生なんかあるはずがない、転生はない」。ほとんどの人はそう考えそう感じているでせふ――漠然と、にせよ――。だがしかしところがどっこいどっこいしょ、心脳科学(仮説)と質の科学(仮説)を適用して考えると、それらはすべて間違いである、という結論にいたる。心脳科学(仮説)において定義される「意識・意識のフィールド・意識の主体」――それは上述の普通一般に用いる「意識」とは異なる。心脳科学(仮説)での「意識」は上述の普通一般に使う「意識」に含まれているにはいるが、その上述の「意識」にはさまざまな意味がごっちゃに混ざっているので、それらを正確に分離して、それぞれを正確に定義して用語をあて用いないと科学的に扱えない。しかも、普通一般には「意識」を、心脳科学(仮説)のいう「意識」の意味には用いていない。・・・それらについては既に詳細に記している・・・。さてそこで、心脳科学(仮説)において定義される「意識~意識のフィールド~意識の主体」――「意識の主体」を「自分という純粋意識」と呼べばわかりやすいかもしれない――において、「意識のフィールド」と「純粋意識」は異なる。「意識のフィールド」は「意識の器=意識器」であり物理的な存在であり、そこにある働き~機能~性質「意識」が「意識の主体」=「純粋意識」である――それが自分と同じ人が自分の死後生まれたら、それは自分の転生(自分という意識の主体の転生)なのである。・・・参考――「自分という純粋意識」とは、何もかも忘れて、なにかに没頭していても、やはり自分は自分であると感じる・・・そこにあると言ってもいいだろう――・・・:以上、参考・・・さて、参考の前に戻って・・・そこをいくつかのやり方で概算~概念計算~推測・思考すると、「自分の死後、自分は必ず生まれでてくる」、という結論におちつく。それ以外の結論はでてこない。・・・その考え方や計算とは・・・(下略)☆☆☆西山浩一(世界人・春楽天)