201127:加筆形式#3(途中):質・クオリアの科学(仮説)~心脳科学(仮説)~世界哲学
筆者がネット上に書いてゐる(載せてゐる)記事sの多くは、主要な言語sにおいては、翻訳されておるようじゃす。その翻訳は大変そうじゃす――さらに加筆形式になると翻訳も読むことも大変じゃろうす――しかるにできるだけ早くアップロードした方がよいでせふと筆者は考へておるのじゃす――。特定の専用ソフトを用いれば、そこらの困難は大きく減じられることは周知じゃろうす。で、一応仕上げたら(とゐってもさらに加筆していくじゃろうすが)告知しませふ(これは過去にも書きもうした)。(――筆者が書いている記事sは、書きなぐりのようなものであって、どれもが不完全であり、これからも加筆と訂正をつづけていきもうす――――それと・・・学校で学んだ内容以外については、本スレッドの論などを研究するのに必要な程度(かそれ以上)の習得しかしていないのじゃす。なにもかも知っているなどということは全くありもうさん)。・・・筆者の研究とウェブへのアップロードも極めて大変じゃす。しかるに、筆者は苦しひながら、やり甲斐・生き甲斐を感ずるのでさういふことを続けておるのじゃす(――本スレッドなどの記述量は膨大なので、読み返すことも大変であり、重複や間違い、いいかげんなところ、加筆修正すべき個所sも多いでせふが、そこらについてはご了解あれかし――)。・・・ともあれ、筆者が英訳せずとも済み、ありがたひことじゃす。よき時代になりもうした。それらをぜひ有効・有意義に活用してくだされ。(――ちなみに・・・、筆者は警察と連絡を取りあっているのである――)・・・過去に、心脳科学(仮説)の概要を、英訳していたのだが、主要な言語sにおいて、翻訳されていた・いるとなれば(ありがたいことに「ブロックチェーン的になる」)、翻訳の必要がなくなったので、その英訳を途中までで打ちきっているのじゃすた・・・本スレッドには、心脳科学(仮説)本体の一部、質の科学(仮説)、世界哲学などと、それらに関連した内容を載せておりもうす。本スレにある設問シリーズは千差万別じゃす。「運命のノートシリーズ」も書いてありもうす。「チャプター加筆形式」の記事シリーズでは、これがチャプター#3じゃす。「チャプター加筆形式」の記事シリーズとしては、#1~#2~#3のほかにも、膨大な文章を書いている(3月25日’18・今加筆中の#3は、#882である)筆者は、このシリーズをいつ書かなくなるかわからないので――人間はいつ死ぬかわからない、という意味をも含めて――すべての人間が、なんにおいてもそうじゃす――、メモのような書きつけをも載せておきもうそう。(・・・付記・・「転生はある、といった文章を読んで納得して自殺することは禁じられておりもうす・この世界の法則の実態によって(既述)」・・・)☆毎日あちこちに加筆しているのじゃすが・・・さて、今回は・・・1月13日'18・の分が膨大じゃすたので、読んでいる・翻訳している方々が消化不良を起こさなひように、少し載せることにしませふ・・・といっても大量に載せることもありもうすが・・・☆グチを一言・・・読み返さず新しい内容を書くことはかなり気楽にいけるんだが、本文を読み返して加筆やら推敲をなすことは、意欲と調子がでてノリノリの状態にならないときわめてむずかしいケースがかなり多い。筆者の得意技の寝ぼけたような心脳の状態では、そういったことは大変だ。そういうばあいはうんざりすることもけっこう多い。自分で好きでやっているにもかかわらず「これを読み返して手を入れるのか。いったいなんの罰ゲームだ! 」といったところである(笑)。・・・つひでに・・・筆者は、ウェブ上に載せる文章も、だいたい一発殴り書き、がほとんどで、読み返して加筆訂正することはまずはないままに、載せている、という実態にありもうす。加筆訂正推敲はそのうちやろう、ということなんじゃらす(その後からそれらをなすこともある程度ある)。それでなければ、筆者の身体も頭も、もたない、といったところなので、ご了承あれ。何も書かないよりはマシだと思し召しあれかし。・・・ここでコフィーカフェブレイクを・・・――「オボシメシ」とは、新種のウメボシ・オボシと白ご飯を併せた、ウメボシおにぎり(おむすび・地域によっては)のことではないのじゃらすが、そうオボシメシしてウメボシおにぎりを食べるのも一興でせふ――;・・・ついでに・・・「おにぎり」、というのは、手でおにぎりを作る様子からの具体的なネーミングで、「おむすび」というのは、ご飯粒をくっつけてひとまとめにする(結ぶ)、といった感じで、ちょっと抽象的なネーミングになっている)、と思う。おまけに、「おむすび」だと、手で作らなくてもいい、ということもある。「おむすび」も、手でそうやってご飯粒をくっつけて「ひとまとめにしている様子」からきている、と解すれば、「おにぎり」と似てはくるが――・・・☆☆☆――筆者も、カタいことばかり書かれた文書を読むのは苦痛であることもある。そんな時は「フニャケた」文章を読みたくなるもんだ。読者の方々も同じでせふ。筆者の書くものに、ジョークやユーモアの部分がなかったら、「こんなもん、読みたくねえ~」と、読まれない度合いが高まるでせふ。ということで、時々、ジョーダン・ユーモアを盛り込んだ「フニャケた文章」を書くのは、読者の方々のためでもあるし、筆者の息抜きでもありもうす――☆☆☆……筆者はブログを多数もっているので、時間の関係でコメントに返信できません…悪しからず……☆☆☆加筆内容など・ピックアップコーナー(上略)頭の中だけで考えるばあい、言葉にする前にモヤモヤした心的内容があるそれをできるだけ正確に言葉にする普通は独り言を言いながら考えることはまずないが、独り言を言いながら考えると様相が少し異なってくる書きながら考えても様相が少し異なってくる(加筆)・・・さらに・・・頭の中で、ほぼ同時並行して複数のことを考えるばあい、心器~心脳はどう働いているのだろうか(加筆)(ややこしい)加筆用(どこかに挿入):思い――心器の思いは非物質的なんだが(・・・この「が」という接続助詞はさまざまな働きをもち非常に便利である・・・手抜き用助詞・笑・・・)、それは物質化する。たとえば、怒ると、視床下部(これは心器と密接な関係がありそうだ。脳下垂体もそうだ)~脳下垂体~さまざまな内分泌腺sから種々のホルモンsが放出される(それらの生成も進む)~、という実態があることや――それらは身体という物質の組織にさまざまな変化を与える――、心器が思い行う言動によって、まずその身体から始まって(身体を動かすことなど)、外界や物などを動かすことができる――さまざまな物を作り出すこともなす――、という実態があるわけであり、それらは「思いは物質化する」と表現できる。さらに、直上にも述べたが、「思い」から何かをつくることもできる。それも、「思いは物質化する」と表現できる。(・・・ただし、それだけでは、思いは物質をつくりだせるとは言えない。物質を動かせる、物質を加工できる、と言えるだけである――ところが実際には、知性体は物質をつくりだすことができるようだ(どこかに記している)――なんと言っても、さまざまなフィル-ドsがあってそこでは物質が生まれたり消滅したりしていると、現代物理学は主張しそれを確認しているのであるから)。とにかく、心や意識は非物質であり、既にどこかに記しているように、それらは目に見えず、触ることもできず、それらを取りだして目の前に置くこともできない(――それは霊魂と同じではないか・マジで――ここのつなぎ方(つなげ方)の論理はちょっとおもしろいと思うんだが――)。それであるのに、心は、物質の世界を動かすことができる。以上の記述内容は、非物質の世界と物質の世界の関係を示している、とも理解できる。しかも、物質の世界が非物質の世界(心の世界~意識の世界)に働きかける、という実態もある。こちらは、物質や肉体からの情報が心に働きかける、ということである。で、人間と人間の関係においては、「非物質の世界」と「物質の世界」両方が絡み合って、人間と人間の間で相互作用している、と言える。1・しかも、人間の心は、非物質的ななにかを求めるという実態をももつ――美、楽しみ娯楽、生き甲斐、名誉、愛情、地位、快楽、慰め・癒し、そのほか、などなどを求める――。2・その前に人間の心は物質であるところの衣食住(これは、食衣住の順番だろうが・・・寒すぎる地域ではその限りではないが)を求める(例外はあるかもしれないが)。で、3・人間の心が、人を求めるのは、「非物質的ななにか」と「物質的ななにか」の両方を求めている、と言える(――最もよく語られる「愛」は非物質的ななにかである・・・物質を介して愛を表現することもできる――)。4・人の心が、人間を含めて生物を求めるというところにおいては、それ以外の要素があるだろう――上述「1」「2」「3」以外の要素があるだろう――同じ生物として抱きしめたい、とか、愛撫したい、とか、かわいがりたいとか、などという心理を人間はもつ(例外はあるかもしれないが)――。5・人間は生き物である。生き物は非物質と物質から成っているが、それだけの存在ではない、という根拠・証左(証拠)にもなる――「4」からの展開――。――生物とは何か、という追究内容は既にどこかに記している――さて、ここで、「3」の「(愛は非物質的ななにかである・・・物質を介して愛を表現することもできる)」からの展開をなしてみよう。「愛」とは、昔からさまざまに言われてきた非物質的なにかである。で、人間にとってその「愛」の基本は、自分が大切に思っている者・自分が好きな者への愛、だろう。その愛とは、その者を護る、その者になにか喜びを与える、その者の悩み苦しみなどを癒してあげる、その者の手助けをする、その者をある意味崇拝する、こと、などなどだろう。それは、「非物質である心」のもつ働きの中にある。しかし、そこでは、時の経過とともに、相手を嫌うこと、勘当、離れること、とか、離婚、大喧嘩、などといった実態も起きる・起こる。それが人間の実態である。それが人間である。それ以上、人間にはどうしようもない。――そこには、質の対生成、質時間回帰、という実態も大きく含まれている――で、考えられることを考えつくそう、という精神で、「愛」について抽象的に考えてみよう・・・1・絶対的にプラスを与え続ける愛――これは大自然か神の一部(――神という存在はすべて、人格神である・過去に死んだ人物の心器・知性体である。いやいや、神は怒りまくったり人間を罰したりするからここの記述はよろしくない。それらについては、どこかに詳細に記している――)のもつ特性だろうと、「まずは思う」――大自然も神も、その愛は、直近上述「1」であってほしいが、大自然も神も「マイナス」をも人間に与える・・・天変地異異常気象飢饉病気天罰神の怒りなどなど(加筆)(――それは、質の対生成と質時間回帰のもとにある――)よって、直近の「1」は実存しないと言える。(――ただし、恐ろしくも-もの凄い聖人――「1」を発揮する人間――が、無限の時間の中に何人か現れてくる可能性は否定できないだろう――そうなると、質の対生成で、その反の人物が同じだけ現われるだろうが――)となると、どんな愛も、離れた上述「しかし、そこでは、時の経過とともに、相手を嫌うこと、勘当、離れること、とか、離婚、大喧嘩、などといった実態も起きる・起こる」という実態にあることになるだろう――しかも、そこでは、人によって、愛を与える量も異なるし、相手を突き放すに至ることを防ぐ忍耐力なども異なる――。(加筆)そこでも、質時間回帰則が働いている(加筆)質の対生成と質時間回帰則があるから、完璧な平和は達成できない・・・・・・・以上に関連して付記・・・通貨は信用という非物質的ななにかを伴っている・(たとえば、アメリカとドルを観察していれば、そこのところがよくわかる・・しかしその挙句墓ドルという存在も生まれる・それらの結果はそこにたどり着く・・質時間回帰である・・・)・(信用とか信用創造とかいうこともそこからでてくる・・しかしそれらは無に帰す・質時間回帰である・・・)・・・人間の欲望もそこには含まれているだろう・・・基本的に通貨という存在は、「物質的な何かやサービス」との交換媒体なんだが・・・201023――ここらは表現がむずかしい・・・能力以上のなにかを創りだす・・・しかも創りだしたなにかが、今までにないものである・・・そういったところに着目したい・・・それだけではないが・・・で、能力には先天的なものと後天・学習によるものがある・・・その先天的な能力はどこからきたか・・・ここらもむずかしい・・・表現もむずかしい・・・それに類する内容は既述している・・・あと、既存の知性体がかかわってくる能力もあるだろう・・・そういう先天的なすごいなにかがあっても、それだけでは物事は納まらない・・・そこにおいて、すべてを納める枠組みと知性があるとすれば、なにも試行錯誤は要らない、ということにもなる、そんな枠組みと知性はいつ生まれたのか、どうやって生まれたのか、という謎と設問もでてくる・・・・・・複数の内容を同時に書くことはできないので、少し遡って・・・「学習することができる心器」という存在があるわけであるが、「学習できる」のであれば、それをなにものが創ったのか――その「A・なにもの」は一体どんな能力をもっているのか――・・・1・「学習できる能力」2・「単に機械的な反応をするだけの心器・知性体としての存在と、その能力」3・「そういった、単に機械的反応をすることの中に学習能力が生まれえるか、存在するか」(4・「それは遥かなる過去から存在する、知性をもつ存在であって、高度な知性と実行力・施工力をもっている」)・・・「1」「2」「3」の絡んだ、そういった謎と問いもでてくる・・・――さらに・・・Z・「A」は、すべて(複数あるとすれば)気の遠くなるような時間の経過の中にある試行錯誤の結果でてきたY・「A」は初めからあったX・「Z]と「Y」の中間あたり(この表現は、どちらかにより近くあるケースをも含む)それらの中のどれなんだろう、という謎と設問もでてくる。しかも、途轍もなく永い時の経過と共に「Z」「Y」「X」の割合が変化していく、という可能性もある。――以上の内容に似た論述はいくつか既述している――(・・・むずムズするくらいむずかしい・・・むずムズどころか、むかムカしてもくる・・・むずかしい・・むつかしい・・むかつしい・・・)(加筆)さて・・・、心器・・・精妙・精緻なフィールド学習能力知性自由意思(意志)心器・・・超微細な素子sから成っているそれがどう働くか(電子機器などを参考にして考えてみるか)(心器と意識器については、その後研究が進んで、既にどこかに記している)(加筆)――まあとにかく、心器は物理法則の実態を越えた知性と実行力をもっている(タネもシカケもないマジックがあることがその証拠・証明・実証になる)――さて、今度は別な展開~表現でいこう・・・心器が扱うのは、エネルギーの粒々――「心的内容・エネルギー非経時変化・粒子モード情報スペクトル要素s」←「心的情報粒子s」と呼ぼう――である。――ちなみに・・・意識器が展開するのはエネルギーの波――「エネルギー経時変化波動モード意識内容」←「意識内容波動」と呼ぼう――である――(以上の2項については、既に何か所かで詳述している)で、心器というフィールドに、「情報粒子s」が入った――心器が取り入れたという感じか――としよう。・・・「入った」、と、「取り入れた」では、実態が異なる――そこにも研究課題がある――・・・ややこしい・・・この追究はどこに書こうか・・・手っ取り早くここに端的にそれを書いておこう・・・(その後の研究内容をどこかに記している)・・・「入った」だと、心器の知性が取り入れたのではなく、「勝手に入ってきた」、「偶然入ってきた」、ということであり、「取り入れた」だと、心器の知性が「必要に応じて選んで取り入れた」、ということである。――これは、「(筆者の心器が)さっと発想して書いた内容」を分析して記した内容だが、こういう研究のやり方もある、という実例である――。・・・実際、我々の生活においても、むこうから勝手に飛びこんでくる情報と、こちらが求めて得る情報や選択して得る情報がある。さて、そこで、心器というフィールドに「情報粒子s」が入ったとして・・・1「その一部が、そのフィールドに埋没――つまりそのフィールドにエネルギーを供給しただけ――・・・そしてそのエネルギーによって新たな情報粒子sが発生する。埋没しなかった情報粒子sは、そのまま残っている」2「それら全部がそのフィールドに埋没――・・・そしてそのエネルギーによって新たな情報粒子sが発生する」「1」のばあい心器のもつ知性心器のもつ情報粒子s残った情報粒子sその、「新たに発生した情報粒子s」――これらには、心器の知性が生成したものと、偶然生成されたものがありそうである――それらとは別に心器が新たに生成した情報粒子s――それにおけるエネルギーはどこからくるか、という謎と問いもある…以上を心器の知性が扱う「2」のばあいでも、「1」とほぼ同じである――そこでは、【その「新たに発生した情報粒子s」――これは心器の知性が生成したものと、偶然生成されたものがありそうである――】がないだけであるさてそこで・・・、心器の知性が生成する「情報粒子s」そこに働く知性とはなにかその知性はどういう機序――仕組みと運用力――をもっているかという謎と問いがでてくる(加筆)心器は知性をもっているその知性は与えられた知性と、学習した知性からなるさらに心器は自由意思(意志)をもっている――何か所かで詳述している――(ここにも以前書いた謎と問いがでてくる・・・いちいち書くのはメンド草草めんど草・・・)・・・この世界の謎sは、追究していっても答えがでないのではないか、と思われるくらいだ――そういう領域が多い――そうなると、心器の知性や心脳を含めて無限の時を経て今の世界ができ上がったという推論・結論が第一にでてくるだろう(上述「Z・「A」は、すべて気の遠くなるような時間の経過の中にある試行錯誤の結果でてきた」)・・・うーん・・・そうとしか思えん――今はちょっと頭が鈍っているので、これ以上は発想できない・・・といっても、いつでも筆者の頭はおおいに鈍っていて困るんだが――・・・・・・以上は、心器のもつ心的内容論理活動-略して理活(と自由意思・意志)をテーマにしているわけである・・それについて、その後さらに研究した内容をすでにどこかに記している・・・(自由意思・意志も、理活能力の範疇に入る)・・・(加筆)――ここでは、心器の機構・仕組みを物理的に解明することを目指している・・・それができれば、意識器の機構――仕組みと運用力――も同じ手法で解明できるだろう・・・――さて、以前、マジック(超常現象の一種)について何回か述べたことがある・・・それらを再掲してみよう・・・で、ここで何を言いたいのかというと・・・、「心器・知性体という存在がある」、ということの傍証を記す、ということなんだが・・・再掲・・・「マジックで、タネも仕掛けもないパフォーマンス、というものが実際に多数存在する。それらはもう不思議であり神秘であり奇跡である、そういったマジックsがたくさんあるのだ(超常現象の一種)。それらにおいては、マジックをなす本人の心器がやっているケースもあるだろうが、多くは知性体(狭義の)が行っているパフォーマンスsが多いだろう。(――それらを観るときには、目玉が跳びださないように注意しないと、あるいは、目玉が跳びだしコンタクトレンズがはずれるかメガネが割れるか、といったことがないように注意しないと、というくらいのもんだ・◎_◎・◎д◎・☆д☆――;)・・・さて、これもここでは重要なことなんだが・・・、再掲になるが、現代物理学は、ほとんどすべてを「場(フィールド)」で記述しようとする。「場場場場場場場場場・・・」である(爺爺爺・・・ではない)。既に詳細に記しているが、そこからいくと、「なんでも在り」なのである――「なんでも在り!」である。「心器というフィールド」も「意識器というフィールド」も、「以下に述べるフィールド」も、当然存在するだろう・・・・・・ついでに・・・そこからいくと、「奇跡」も「不思議な事象」も「神秘的なこと」も、なんでも在り・実際に起こる、ということである(――どこかに述べているとおりである――)・・・上にもほかのところに書いたが、マジックの中にはタネも仕掛けもないものがかなり多いのである――つまりそれらは不思議・奇跡・神秘であると言える――。・・・ほかにもありそうだ・・・こう並べてくると、「なんでもありだ、なんでもありそうだ」という感想がでてくる。となると、テレパシーとか呪術とか、なにか「不思議な実態s」が起こりうる? ・・・・・・マジックの中には「もの凄い」のが多いが、その中にはどう見てもどう考えても「タネもシカケもない」ものがあるのである。つまり・・・上述その「不思議な実態s」という意味のマジックというのがあるのかもしれん、という結論に至る・・・(それらもあるのである。起こるのである)・・・・・・ちなみに・・・超弦理論を用いて記述される「心器と情報量子」が現実に存在する、とすると、重力子やさまざまな量子・粒子――内部構造をもたない素粒子、内部構造をもつ基本粒子(とここではまとめる)――を発生させることができる可能性がある。そこからさらに・・・さまざまな宗教関係の書sなどに記されている奇跡も実際に起こりうる、という仮説についても既に記している・・・――。さて、さらには、・・・既に軽く触れたように・・・宗教などで伝承されている不思議な実態sや奇跡sも、そこから説明がつくだろう、というところにまで至る。種も仕掛けもないマジックも同じくそうだ・・・(それらについては、研究が進んで、どこかに詳述している・・もの凄い世界である)・・・・・・そういった領域は筆者にとって、跳び抜けて飛び抜けておもしろいんだが――そういう方も多いことでしょう――以上、控えめに書いておこう・・・。・・・以上、心器と意識器における情報構造から上のことがいえる。・・・以上において重要なこととして・・・外界・物質世界(意識のそと)が、人間に見えているそのままであるとみなすと、「二重スリット実験」も「EPRパラドックス(既述)」も、タネも仕掛けもないマジックや宗教における奇跡など(既述)も、解明できないし説明がつかない。・・・(・・・ということは、特定の条件下・特定の領域で相対論は成り立つ、ということになりそうである・・・・・・「二重スリット実験」については、問題なく説明がつく・・・・・・「タネもシカケもないマジックや宗教における奇跡など」についても、問題なく説明がつく・・・)で、心器はそのデータベース(既述)から情報を受ける~取り出すわけであるが、心器がそのデータベースに干渉できるのだろうか?つまり・・・心器はそのデータベースを書き換えることができるかどうか? 1・できる1・1・完全にできる1・2・部分的にできる1・3・ほんの少しの部分についてできる2・できない以前にも直前でも他でも述べたが・・・、マジックの中にはタネもシカケも全くないものsがある。いってみれば・・・奇跡・超常現象が起きているマジックsもあるのである。ほかにも宗教における奇跡やそれに類する事象・事実などもある。それらについては、「非常に発達した心器~知性的存在」がデータベースを書き換えたと理解すれば納得がいく。…とすると、心器~知性的存在は、そのデータベースの外に存在する可能性が高い、ということになるだろう。たとえば、人間が地上にあって、自分の服の襟首をつかんで持ち上げることができないように――人間はジャンプはできるが、それは地球との間で力~運動量のやりとりがなされるものの、すぐ以前の状態に戻るということである。それは一時的には書き換えが可能というたとえにもとれるが、すぐに元に戻る、と」・・・以上、マジック関係の記述の再掲・・・・・・もうひとつ別な方面からの論考を別なパラグラフから再掲・・・「(加筆)・・・さらに・・・、筆者は、心器は絶対にあると思う。なぜなら筆者はいくら泥酔していても、やるべきことはちゃんとやれるからだ。心器が脳の一部であるなら、泥酔したら、言動がめちゃくちゃになりそうなものだが、筆者のばあいそんなことはない(――泥酔に至る過程で、泥酔のいくらか前までは、脳の感受性や活力が高まる。それによって、脳から心器に活力のある情報が行く、という実態はある――)。つまり、脳が泥酔して、ニュ-ロンsの働きがふだんとは異なる状態になっても、心器は、泥酔の影響を受けずちゃんと働く、という結論がそこからでてくるのである――いくらかは脳の酔いの影響を心器は受けるが(脳が発する情報スペクトル要素sによって・・・上述のカッコ内に書いている)、基本的に、「酔うのは脳」、「心器は酔わない」、ということである、と結論できる・・・。それに、脳には心として心脳を統括する部位はないことははっきりしている――既述――。・・・以上、そこらのところは、心脳科学(仮説)を参考にされたい・・・それから・・・、「心器は絶対にある、と筆者は実感する」、と筆者の心器が言っている(笑)――これを書きたくて、このパラグラフを始めたのであるが、この結論だけでは、ふにゃ論であり説得力に欠けるので、この前にさまざま述べたわけである――。結論として・・・「心器はある」・・・(もちろん、意識器もある)・・・(――それらに関連してほかのところsで、さまざまを多く既述している――)・・・。・・・以上、再掲・・・・・・以上の再掲内容とそのほか(既述)から、心器~知性体は存在する、ということが言えると思う。さらに、既に何度も詳述しているが、脳における情報処理のようすと情報構造から論じると、心器というフィールド(と意識器というフィールド)の存在は必須なのである(――そして人が昇天しても、その心器はなくならない。同じく意識器もなくならない――)。結論として・・・心器の物理的仕組みは今までのところ、中途半端にしか迫れていないが(上述。その後研究が進んだので、それらをその他のところに記している)・・・、心器というフィールドは存在し、それは学習能力と知性と自由意思(意志)をもっており、心器ではそれらが働いている、ということになる。さて次は意識器について・・・意識器というフィールドも心器のそれと(に)似ている。ただし、その性質と働きは大きく異なる。心器のフィールドは、知性をもち、情報の理活を行う――そして心的内容を生成する――。意識器のフィールドは、心器からやってくる心的内容を意識し味わう働きをもつ――意識内容を意識し味わう――。しかも、意識器は、自分を自分だと感じ意識するところの、Aさんの意識、Bさんの意識、(以下略)といった個別性をもっている。・・・そのふたつは、脳(と心脳)における情報処理と情報構造の実態――脳においては、デジタルでバラバラ・ギザギザな情報処理・・・情報においてと、かつ、情報処理において、内容的にも空間的にも時間的にもバラバラ・ギザギザ――――意識の実態として、滑らかな情報変化・変化情報をもつこと――から、必然的に導きだされる(本論で詳細に何度か論述している・さまざまな論拠を挙げて)・・・さて、まずここに必要な再掲だが・・・、【心器が扱うのは、エネルギーの粒々――「心的内容エネルギー粒子モード情報スペクトル要素s」←「心的内容情報粒子s」と呼ぼう――である。】心器で扱って(理活し)一コマにまとめられた「心的内容情報粒子s」(=完成した心的内容情報スペクトル(理活した一コマ分)が意識器に入れられる。意識器というフィールドにおいては、その一コマにまとめられた「心的内容情報粒子s」が、「意識内容情報波動」(=エネルギー経時変化波動モード意識内容)に変化する――たとえとしてそれは・・・見る対象からやってくる光の波動混合体に似ている・あるいは、音楽の演奏集団からやってくる音の波動混合体に似ている――。で、「意識器というフィールド」の存在は、既述の根拠sにより確実にある、ということになる。それがないと(心器というフィールドも同じくそうだが)心脳の現実は100パーセント成りたたない。で、(心器と)意識器という存在について言えば、それら以外の、物質的な存在とそれらの場sの存在と同じく不思議だ。しかし、それらについては、どうしても、ある程度以上の追究はできない――最も深いところは言葉では理解できない――人間にはわからない――・・そうだと思われる・・・そこらのところを文字にしてみると・・・「現にこの宇宙は存在するが、なぜこの宇宙があるのか」「どういう原理・法則によってこの宇宙があるのか」「物理的に、多くが場の理論で説明がつくのであれば――と言っても、その原理が存在する~その原理を存在せしめている、大元はわからない――、心器というフィールドと意識器というフィールドの存在についても、ある程度以上の究明と説明はできなくてあたり前であり当然である」さて、既に書いているが・・・、心器と意識器の説明のために「池の水とそこに砂粒sを無数に落とすたとえ」をここで持ちだしてみよう・・・さらにそれに新しい説明をもつけ加えよう・・・それら無数の砂粒sは、心的内容情報粒子sのたとえである。砂粒sを落とす人間が知性をもつ心器のたとえである。その心器は、どんな大きさの砂粒sか、どんな形状の砂粒sか、などについて考え観察し、砂粒sを選びだし、最も好みの波(波動)を池の水の表面からかなり下まで発生させるよう、知性を働かせて砂粒s――ひとまとまりの情報粒子s=心的内容情報スペクトル(心器が理活してまとめた一コマ分の心的内容情報粒子sのタトエである(ここではそう呼んでいる)・・情報発受信物質が発信する情報も情報スペクトルであるが(そう名づけている)、それら+情報粒子sを理活してまとめた心的内容を、ここでは、「ひとまとまりの情報粒子s=心的内容情報スペクトル」とも呼ぶ)――を池の水に落とす。すると、池の水は複雑精妙な波やうねりをもつことになる――それが意識内容情報波動=エネルギー経時変化波動モード意識内容の例えである――。で、ここでは、池の水は意識器というフィールドのたとえである。その池の水――意識器――は、その複雑精妙な波やうねりを意識し味わうことができる――意識器はそういう働きをもっている――。・・・心器と意識器について、物理的かつ完璧に説明することには、まだ成功していないが、これからそこにも挑戦していこう・・・(――それは既にどこかに何回か書いたように、完璧な解明と説明は不可能だろうが――・・・ただし、その後研究は進んでいる・・それをどこかに載せている)・・・(加筆)・・・参考――さまざまな既存の数学的フィルタsと関数sの一部は、心器の理活における一領域のモデルとして近似的に適用できるだろうか? 特にディープラーニングで用いられているそれらのどれかが参考になるかもしれない――(加筆)(・・・むずむずむずかしい・・・霧頭化思惟(ムズカシイ)・・・つひでに・・・この「頭」の音読み・つまり中国的読みは「とう」と「ず」などがあって――それらの発音sはあまり似てない・・似ているとも言えるが――、不思議な感じの漢字だと思う・(音読みってのは、昔むかし、日本人が漢字を取り入れたときの、シナ式発音を、日本的にして読むようにしたものである・・しかも、そこには、取り入れたシナの時代による違いもあるし、取り入れたシナの地域による違いもあるし、現代シナ語とは異なっているケースsもあって、うぜらしか(うざい)こと200パーセントである)・・・・つひでに・・・頭は、「訓読み・大和言葉」では、あたま、かしら、つむり、こうべ、かぶり、おつむ、など多彩である・・・)(加筆)加筆用(どこかに挿入):理活――心器の行なう-心的内容論理活動――につひての研究もやってきてゐるわけだが、さらにとぅどぅけよふ(つづけよう)・・・本スレッドにおいても、筆者はところどころに、筆者の心脳の現実――・研究のようす、ジョーク・ユーモアを考えるようす、連想のようす、どういうふうに書くか・その実態、発想のようす、とゐったことにおける活動の実態とそこからの結果など・――を言葉で記してゐるんだが・・・(・・・それらを探しだして再掲するのは、めんど草草めんど草、なので省略して・・・)今回はそれなどをもとに「理活(心的内容論理活動)」につひて研究してみよふ・・・さて、理活だが・・・理活とは・・・主に、心器による心的内容論理活動(論理的でない理活もあるが、それもそう呼ぼう)のことである。そこでは・・・心器自由意思・意志連想・共鳴(共振)知性体の参加脳でのニューラルネットワークにおける論理活動――ニューロンsの感度の調整(重みづけなど)と、その論理回路の実行、と説明しておこう・(ニューロンsの感度の調整という表現は正確ではないかもしれないが、学習の一種である――それは、たくさんの標本データsをもとに、設定した目的に至る確率・可能性がもっとも高くなるようにニューロンsの感度を調整する(重みづけなど)、ということだろう、と推測している)・――も参加している以上で成りたってゐそうだと、今は考ゑてゐる。そこで、それに関係のありそうな概念sをもつ言葉sを羅列してみると・・・想像・・・発想・・・創造・・・共振・共鳴膨らむ(素材sの数が増える・を増やす――そこに知性が関わるケースとそうでないケースがある――)連想(共振・共鳴+さまざま、だろう)集象(抽象と捨象に対して集象;情報の素材sを集めること)フィルタ・漉しとる・漉し捨てる(不必要なものsを捨て、必要なものsを集める・・・そこの基準と識別がむずかしい・・・「心器とニューラルネットワークが行う・知性体が参加するケースもあるだろう」=「知性が行う」――ニューラルネットワークの働きも一応知性に分類できる――)捨象(不必要なものsを捨てる)収縮(素材sの数を減らす・が減る)素材sの組み合わせ(順列組み合わせ的にやると、あまりに膨大になるし、無意味・無価値なものsだらけになる。かなりな程度知性が関与すべき)選択(知性が選択する(本論~このスレッドでは、知性とは感性と理性などをも含む))抽象(対象の内容から骨格・原理を抽出する・漉しとる)帰納(たくさんの具体s・素材sから、それらをまとめえる、抽象的な、骨格・原理を抽出する)演繹(抽象的な骨格・原理から、具体sを導きだす)素材sの組み合わせにおける必然の結合結合の必然性ジグソーパズル;ピースとその形状とその図柄~それらと全体との関係音楽や歌におけるコードsとコード進行の関係、それらとメロディーとの関係音楽や歌における対位法の有効性の実態音楽や歌におけるリズムと打点(打点の専門用語を忘れた~それはリズムだ? と思うが、音符とその演奏の時間的な性質のことを、打点と、ここでは表現)音楽や歌における拍子とリズム(リズムと拍子)音楽や歌における楽器sの音色の効果音楽や歌における、緩急や強弱、ビブラートなどの効果音楽や歌においての、以上の組み合わせの効果と実態文学・文章などにおける、単語の組み合わせとその効果・意味言語における文法種々の色sの組み合わせとその視覚効果形状と色の相乗効果などなど・・・以上をもとに考えていこう・・・――以上のほとんどを既にどこかに記しているのだが、ここからが難しい――(・・・むずかしい、むつかしい、むかつしい、むかむか、かむかむ・・・「何を噛む噛む? 」・・・やけ食いではありもうさぬ・・・つまみ食いなり・・・)(加筆)・・・注:自由意思・意志と知性がないと、想像~創造、新しいなにかの発見、研究、などはできない(だろう)。・・・そこには、連想や記憶、先験的知性――それはほとんどのばあい、起源情報スペクトルから来るだろう。さらに知性体から来るものもあるだろう――や体験などによる体感(複雑な記憶の一種で、知性の一種となる)も参加しているケースが多いだろうが(まったくそういったものを必要としないケースもある)。そこに、知性体がかかわっているケースもあるだろう。――以上から、洞察性・洞察力もでてくるのだろう――・・・以上は、生物の発生や進化についても言えるのではないか・少なくとも知性がかかわっている、と・・・これについては既に詳述している――(加筆)・・・参考――さまざまな既存の数学的フィルタsと関数sの一部は、心器の理活における一領域のモデルとして近似的に適用できるだろうか? 特にディープラーニングで用いられているそれらのどれかが参考になるかもしれない――(加筆)(研究中・・・研究中という中学校に入学・・・若返った・笑・・・中学生が、酵母君たちが食い散らかしたカスの飲料を飲むと、中学校を追放される・そこは残念・・・なまけ中・・・今度はなまけ中学校にも入学・・・なまけコンクールで優勝・・・)加筆用(どこかに挿入):以下これは、ぱっと思いついただけで、遊びの精神のもとにあるんだが・・・・・・で、まぁ、実効性は低いかもしれないが・・・それでもメモしておこう・・・場の量子論に現れる無限大(発散)を解消する「繰り込み理論」繰り込み理論で、ある領域は問題解決されているが、不完全な領域もあるどこかに書いている「無限大の絶対値はゼロ理論(あるいはゼロ近辺~これは他の理論をも応用)」を用いればそこを解決できるだろうか? その理論によれば・・・無限大の絶対値はゼロ(あるいは、ゼロ+ちょっと~これは他の理論をも応用)マイナス無限大の絶対値は無限大プラス無限大の絶対値は無限大基本的なマイナス無限大(-1/0)+基本的なプラス無限大(1/0)=ゼロ「マイナス無限大」と「プラス無限大」の間にはさまれている「無限大(符号なし)」の絶対値はゼロ――以上、既述――(加筆)加筆用(どこかに挿入):日本語のクオリア・qualia研究の一環として・・・「多い」という形容詞はヘンなやつだ。「多い人たち」などとは用いない。それは慣用であり使わないだけであって、「多い人たち」としても意味はわかるにはわかる。つまり、形容詞のくせに名詞を修飾形容せず、叙述用の形容詞となっているわけである。叙述用だが、普通は動詞を組み込まない。「人が多い」、「人出が多い」、といったふうに用いる。しいて動詞を組み込めば、「人が多い状態にある」、「この海辺には、ヒトデ、ではなく、人出が多い状態にある」、といったふうになるだろう。で、「人が多い」について検討して見ると・・・、助詞「が」に、「状態にある」という意味が含まれていると思う――その動詞を省略してもその意味が残っている、という感じである。しかも、助詞「が」には、「その、それらの」という定冠詞的な意味も含まれている。さらに助詞「が」には、「強調の働き」もある。・・・ということで、別な方面にまで踏み込んでみた。さて、少し前に遡って・・・そのばあい・(「多い人たち」、と言いたいばあい)・「多くの人たち」「数多くの人たち」などという形態になる(「多く」、と連用形~副詞にしてから、「の」をつけて形容詞にしている)。しかし、それでもなにか含みが入る。なんらかの範囲を想定して、その中で、といった意味合いが入るようなところがある。「少ない」もある程度そういったところがある(まだよくは検討していないが)。「少ない人たち」とは用いない。しかし、「少ない人手」で大きな成果を挙げた、とは用いる。「少ない労力」で大きな効果を挙げた、もOKだ。「少ない」も曲者の形容詞だ。(もっとよく研究してみたいが・・・)「美しい」は自然に使える。「美しい花」、「花が美しい」などと。・・・ついでに・・・参考・・・日本語では、上述のように、複数形でも単数形を用いることが多い。そのばあい、それらは単数形でなく「集合名詞」であって、複数形と同じ扱いをしている、と解釈できる。・・・以上、参考・・・前に遡って・・・なぜそういうことになったのか――「多い」の慣用法など――、研究するのもおもしろそうだ。日本人の心性の何かがそこから垣間見えてくるかもしれない。・・・で、もっとよく追究してみると・・・、「多い」は「大いなる」からきているのではないか。「大いなる」=「偉大な」といったところだろう。そういうことで、昔、「大いなる」を「多い」として用いたとき、人々の心にひっかかりがでたのではないだろうか。「多い人」=「大いなる人」という意味にとれて、不自然な感じがする、と。そこで、「数多くの人たち」、とか、「多くの人たち」などと、用いるようになった、と――一旦、「多く」、と連用形~副詞にして、本来の意味を脱してから、「の」をつけて形容詞にしている――。そうすると、「人が多い」はどうなんだ、ということになる。「多い人」だと、「大いなる人」という感じが強くでるが、「人が多い」では、「人が大いなる状態だ」という意味合いにとりにくい、と感じる。それで、「人が多い」は用いる、と。・・・まあ、そういうことで、そうとうな歳月の経過後も、そういう用法になっているのではないか、と考えてみた(試みに考えて理解しようとした)・・・加筆用(どこかに挿入):――またまた結論が反転した。最初にだした結論を、後ろの方で否定し、新しい結論をだしたが、その後者の結論をまたまた否定して、最初の結論に戻すことになった。後者の結論について「なんかヘンな感じがする」といった感想をつけていたんだが、やはりそれはどうにもおかしいのだ。このセクションはほんとに難渋・難航セクションである・・・難点のある渋柿を食べるわけでもないし、嵐の海を行く船に乗っているわけでもないからまだましだが・・・。で、後者の結論の後にその新しい分を記そう。しかし、どうにもめんど草草だ・・・前に書いた一部を拾い上げてそれも書かないとならないし・・・、メンドウ豆草(既述JK)が大繁殖だ~メンドウ豆草草草草草大草原――――このセクションは、まずアイディアを思いつきメモし、書き、書きながら考え書き、書くことから離れて考えメモし、~~~・・・それらを繰り返して書き上げつつある。途中では、クエスチョンマークたちが頭の中を乱舞することが何度も何度もあり、それらは美しい蝶たちのようで、非常に美しかった・・・ということはなかったが・・・非常に悩ましいながらももの凄くおもしろかった(それも質の対生成と質時間回帰の中にある)・・・。それにしても、こんなに難渋・難航するケースは極めて珍しい。ここの記述には間違いが複数あり、後ろにいくとそれらが訂正されていく(と筆者は思っているが、筆者は、かん違いするのも間違うのも得意である)。まあ、これは「心脳活動の現実の記録」でもあるので、複数の間違いはそのまま残してある――さて、本題に進もう・・・心的内容情報スペクトルひとコマ分の時間はいくらだろうか? ――非常に小さい値の秒だろうが――(これはあとで加筆。出発点はここ)それについて考えるにあたって、まず、次のような問いをたててみよう・・・「心的内容情報スペクトル要素」または「エネルギー・非経時変化・粒子モード情報スペクトル心的内容」=「心的内容の一コマ分としての情報スペクトル」、とプランク時間、との間に関係があるだろうか? ・・・「1」(設問)「心的内容情報スペクトル要素s」の周期・・・これにはさまざまな周期がある。その周期と、プランク時間、との間に関係があるだろうか? ・・・というのが設問「1」である。・・・参考・・・「心的内容情報スペクトル」には、2種類ある。ひとつは、「A・心的内容情報発受信物質が発受信する情報スペクトル(要素)(この「A」はひとまとまりの情報スペクトルであり、それを分解した情報は要素または要素sである)(ややこしい)」、もうひとつは、「心的内容の一コマ分としての情報スペクトル」、である・・・で、「心的内容情報スペクトル(要素)」としての仮説のひとつとして赤外線(赤外線スペクトル)を例に挙げているが(ほかにもさまざまが考えられる・既述)、ここでは赤外線で考えてみよう・・・赤外線の周期の範囲は、その周波数が高いので、その無数にある周期はわずかずつ異なる(「わずか」といっても規則はある)。…普通、0,7~1000マイクロメートルの波長範囲の電磁波を赤外線という。で、結論として・・・「2」・プランク時間は「赤外線の周波数の周期(範囲がある)」=「心的内容情報スペクトル要素の単位時間・周期(範囲がある)」より桁外れに小さい・・・。(加筆)つぎに、「心的内容情報スペクトル」において・・・「心的内容情報スペクトルの単位時間」=「心的内容のひとコマ分の単位時間」とプランク時間の間には関係があるかもしれない・・・・・・と思ったが、これは前者「2」よりも単位時間(周期)が大きい――前者「2」における最大単位時間(心的内容情報スペクトルによって、それは異なる可能性もあるし、一定である可能性もある)に等しいだろう・・・考えられること・以上「3」。(研究中)(加筆)で、結論として・・・仮に赤外線で「心的内容情報スペクトル」を形成したとして(この単位時間は一定であるか、範囲があるか、どっちだろう)、プランク時間はその単位時間より桁外れに小さい。で、上述の問い「1」の答えとして・・・「関係があるとしなくてよい」。・・・・・・厳密に計算して、たとえば、上述「3」と「4」(これはなんだったか? ここの課題だっただろう・・・下に書く「4」)(加筆ずくめで解りにくくなったのだった)」と、が共にあるいはどちらかがプランク時間の自然数倍――桁外れに大きい自然数倍だが――になっているかどうか計算してみるのもおもしろそうだ・・・課題「4」・・・そこにおいて、自然数倍になっていたら、上述の問い「1」の答えとして「関係がある」としてもいいが・・・(・・・その計算・・・めんど草草・・・大草原の小さな答え・・・)・・・・・・(加筆)――以上には、「時間の定義」と「最小単位エネルギーの値の定義」が関係しているが、「時間の定義」を変更したら、それに応じて「最小単位エネルギーの値」も変更される、「最小単位エネルギーの値」を変更したらそれに応じて「時間の定義」も変更される、という関係にある。つまり、今のままの物理学のやり方でいい、ということである。そこにおいて、量子のもつエネルギーが、最小値・基本値の自然数倍かどうかを検討すると、たしかに自然数倍であると言っていいということになる(最小単位エネルギーの自然数倍)。・・・最小単位エネルギー・・・たとえば、最小単位エネルギーが1単位広がっていて、そのエネルギーの薄いところで共鳴が起こりそのエネルギーが、どこかに吸収されても、最小単位エネルギーはひとまとまりであるから、そこに全部吸収されるということである――(加筆)――それでもなお・・・まだなにか謎がある・・・、なぜこんな付記を書くのかというと、なにか割りきれないところがあるからである・・・・・・ここらあたりの内容に関連して、もやもやとした謎の雲と霞と霧が筆者の頭の中に広がっている・・・この問題についてはこれ以降にゆっくりと書いていこう――・・・で、その問題はそのままにしておいて、時間について言うと・・・現在の時間は基本的に、地球の自転と公転に関係している。元もとはそこから算出したはずだ。たとえば、今回の冬至とか春分とかから、次の冬至とか春分とかまでの期間・時間を、月、日、24時間、60分、60秒、・(円の区分けからきているのだろう? アナログ時計の文字盤にそれがよく現れている――12と6+5進法と10進法などのこと)・と分割して、そこからきているのだろう。つまり、偶然によって、現行の「秒」は決まった、ということである(しかもそれはほんの僅かずつ変化していく)。:・・・ここは後から加筆・・・時間は基本的に地球の自転による1日を元にしているはずだ、と後になって気づいた。で、調べてみた。そこをゴクかんたんに説明すると、「太陽のまわりの地球の公転は楕円軌道なので、1日の長さ・時間の、は一定でない。そこで、先人たちがあれこれ悩み悶え苦しみ考えて(JK入りだがそんな感じだったんだと思う・・・それはけっこうややこしいのである)、合理的に一日の長さ・時間の、を決めた」ということである。・・・とすると、やはり上に述べた「冬至から冬至」うんぬん、と同じことになるだろう・・・しかし、前に述べ、後の方で述べる現在の時間単位の秒(S)は、偶然によって決まった、ということに変わりはない。:以上、ここは後から加筆した・・・。現在では、その時間にもっとも忠実な原子時計をその基準にしているが、基本はそういうことだろう。その原子時計において、その原子の振動をいくつカウントして1秒にするか、というと、先述の、既にある「秒」を元にしているわけである。・・・そういう決め方の時間で「秒」も決まったわけだ。それは、なんと言えばいいか・・・、宇宙・この世界の本質においてではなく、偶然による決め方だ。そういうことであるのに・(この文言について言っても、これだけではわかりにくいが)・量子力学では、電磁波においては、1Hz増えるごとに、プランク定数の絶対値の値のエネルギーがその電磁波に与えられる(この表現はちょっとおかしいが)――これは正しい――、そして、電磁波のHzは自然数だけである、というように解釈できる文献しかない(――筆者の知る限りでは――)。(ここらは、もの凄く問題なんだが)――ここからは、もやもやとした問題認識(心内問題把握)(普通は問題意識というが本論においては、それは用いない・・本論で定義する「意識」とズレがあるからである)にどうにも整理がつかず、重複した内容を含めて書いていくことになる――・・・よって、文章構成もなし、である・・・で・・・1・小数点以下の値のある周波数の電磁波があるはずである。それは「電子回路の理論」における電子回路によっては、その理論上可能だ(そのはずである・・これは古典論においてのことであるが)。そのばあい、その周波数に自然数を足した周波数の電磁波はいくらでも生成できるだろう・(これは、一応、量子化されていない古典論においてのことだが・・・「一応」と入れたのは、それが必要だからである。つまり、量子化された論においてでも、そう言えるところがある・それは秒を定義する値からくる)。たとえば、123.321Hzの電磁波を発生させたとして、そのHzが1上がるごとに、hの絶対値分のエネルギーが増える。(注:「そのHzが1上がるごとに、hの絶対値分のエネルギーが増える」という事象実態は正しい)・・・何を言いたいのかというと、小数点以下の周波数をもつ電磁波の表記にお目にかかったことがないので、それがあるか否か、という問題認識にとらわれた、そういう電磁波もあるはずだ――、ということを言いたいのである――・・・以上は、先に述べた時間の決め方からでてくる、Hz(回数/秒)とは別な問題なんだが・・・(加筆)・・・どうにも表現がむずかしい・・・で、まずは、頭の中のモヤモヤをメモしていこう・重複を含めて――ここまでも、そういったメモなんだが・・・――上述「1」・・・どんな周波数の電磁波も存在するか否か?――先にも述べたが、基本周波数1(時間の定義の問題がそこにはある)の電磁波は、プランク定数の絶対値のエネルギーをもっている。1Hz振動数(周波数)が増えると、プランク定数の絶対値のエネルギーだけエネルギーが増える――これは正しい――。結局・・・、現行の秒のもとでは、周波数1未満の周波数の電磁波は生じないだろう――しかしたとえば、今の秒の定義のもとで、最低周波数が1.2Hz、ということはありうる。仮にそれが1.2Hzであれば、ひとつ上の周波数は2.2Hzになりそうだが・・・、一応そうなるわけだが・・・、ここには複雑な謎がでてくる・・・ナゾナゾしい・・・。それについては、後の方に記す――。(ここからは、後にいくほど、正解に近づいていると思う――ただし、筆者がそう思っているだけであって、実際にそうなのかは別問題である・筆者は、かん違いするのも間違うのも得意であるから――。よって、その途中での記述には間違いが複数ある)(下略)☆☆☆by西山浩一(C)(春楽天・世界人)Copyright(C)All 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