|
テーマ:タイ(3327)
カテゴリ:タイ旅行記
バンプー保養地(サターン・タークアーカート・バンプー)の入口から
とぼとぼ歩いて行くと、正面に記念碑が見えてきました。 今回の旅の目的は、実はコレを見ることなんです。 こちら側は英語表記です。 反対側に回ると・・・ やっぱりタイ語表記! どちらかと言うと得意なこちらを翻訳してみます。 太平洋戦争歴史記念碑 ここスックター橋において、1941年12月8日未明、大日本帝国軍のおよそ1大隊が 上陸した。同時にプラジュアップキリカン、チュムポン、ナコンシータマラート、 ソンクラー、パッタニー各県にも上陸し、また陸上部隊がアランヤプラテート方面から 進入した。 タイ側部隊は、地方警察1小隊、少年義勇兵、サムットプラーカーン県からの住民で 構成され、この地点の北西約2kmで道路を封鎖した。双方がまだ交戦をしないうちに タイ政府と日本政府の間で大日本帝国軍のタイ国内通過を認める合意が成立した。 サムットプラーカーン県全集落の住民が一致団結して、勇敢に、身と命を捧げて 国家の独立を守ったことは明らかである。よって模範として称賛し、全タイ国民に 語り継いでいくべきである。 真珠湾攻撃と同日の1941年12月8日(月)未明、 日本軍は、まさにこの先の海に突き出た橋に上陸したのです。 上陸した部隊は、陸軍第15軍に配属の近衛師団近衛歩兵第4聯隊第3大隊を 基幹とする部隊(吉田支隊)。 吉田支隊は、12月3日にサイゴンから白馬山丸(三井の商船?)に乗船し、 ベトナムのフーコック島付近で3日間待機の後、7日に出発。 8日の午前3~4時の間にタイ側から抵抗を受けることなく この先のスックター橋に上陸しました。 同部隊の任務は、上陸後すみやかにバンコクへ移動し、 チャオプラヤー川に架かる国鉄南線の鉄道橋、ラマ6世橋を占領すること。 同部隊を誘導するために、在タイの「軍人を中心とする屈強なもの」が別働隊を組織し、 7日夜に納涼と称してこのバンプー海岸へ赴く手はずになっていました。 で、別働隊と同部隊は合流したものの、上記記念碑の文面のとおり、 タイ側とにらみ合いこう着状態に。 タイ側とは極力戦火を交えず平和裏に駐留する方針だったからでしょう。 実はこの風雲急を告げる事態の際に、タイのピブーン首相はバンコクに不在で 連絡が取れない状態でした。カンボジア国境付近から車を飛ばして帰って来た ピブーン首相との間で協議が開始したのは朝7時半。 ピブーン首相の態度が判明(のち、午後3時頃に日本軍通過協定正式調印)したのを 受けてようやく吉田支隊は自動車で前進し、13:40頃バンコクに到着しました。 なお、フランス領インドシナ(カンボジア)に駐留していた近衛師団も先遣隊が 8日朝にタイへ陸上から侵入開始、9日未明にドンムアン飛行場に到着した後、 ルンピニー公園へ前進。 主力も9日午後バンコクに入り、ルンピニー公園で合流。その後 チュラロンコン大学に司令部を設けたようです。 …という驚くべき歴史の一場面が71年余り前、この場所で起きたんですね。 暑いにもかかわらず、思わず身震いしてしまいました。 さらに歩を進めます。 門のような建物が。 プミポン国王の大きな写真の下には「スックター橋」と書かれています。 この先が、その、日本軍が上陸した橋ですね。 いざ! <交通費> 歩いただけなので:0バーツ ここまでの合計:74バーツ ※旅は2012年12月28日(金)に行いました。 ※時刻を修正しました。(2013年3月11日) <参考>『マレー進攻作戦』防衛庁防衛研究所戦史室、朝雲新聞社、1966年 つづく お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[タイ旅行記] カテゴリの最新記事
|