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Lenage Empire B

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Jul 6, 2009
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カテゴリ:日記
考え事についての記事。日記「Summer Vacation」の続きです。

 「ニュアンス」という言葉にジャストな日本語訳を俺が知らないのは既出の話だろうと思う。マトリョーシカ的構造だが、「ニュアンス」というニュアンスの言葉は日本語を探してもしっくりくるものがない。
 しかし一方で、「○○さんをリスペクトして」などと言うことがある。これに関しては「尊敬」で事足りる。自民党の「マニフェスト」なんかもそうかもしれない。僕はいずれも否定的だ。
 言語というものは、不思議なものだ。
 これも間違いなく既出だが、「天体」は英語で「heavenly body」、天の体だ。また、「瞳」は「目の童」と書くが、これは瞳に映った自分が小さく、子どものように見えることに由来しているという。「瞳」は英語で「the pupil」。そしてpupilには生徒とか弟子という意味がある。もちろんこれらは互いに相談しあうことなく発生したものである。
 そしてそう、しかし一方で。日本語にはない感覚も英語にはあり、英語にはない感覚が英語にもある。英語のHaveは日本語でしっくりくる同義語がないだろう。また日本語の語順や省略の多さ、曖昧さなんかは、英語を話す日本人を先入的におとしめる。
 言語には、「人間」という同胞意識と、「民族」という文化意識とが、他の奇跡と相まって存在している。
 だから何かよくわからないワタシタチのコトバがあるとき、誰か他の言語に相談してみようと思う。角度を変えて考えてみようと思う。
 今、「私には、私の信じる神がいる」という和文を考えて欲しい。「私には、姉がいる」という和文は「I have a sister.」になろう、そうやって英文「I have my god.」を導く。そして、"再翻訳"する。「私には、私の神がいる」は、「私は、私の神を持っている」になる。そこにニュアンスを問わないで機械的にこれを認めて欲しい。

 そうして僕は、今日神について書こうと思った。

 「神はいるのだろうか?」という問いに対してあなたはどう答えたいだろう。僕がいまいる位置からは、こうする。「それが重要だと思いますか?」
 たぶん僕は罰当たりだろう。宗教はあまりよろしくないものだと考えている。それは僕が無学だからであろうが、宗教ってのはどうも好きじゃない。宗教に浸かるためには、「個人」を「規範」にはめ込まなければならないからだ。本当の意味であなたが宗教にあるためには、あなたという個人を抑制・排除して、聖典のままに、大勢の仲間と寸分違わない手段で、目的で、思想で、かつ人としてことを成さなければならない。それはとても怖いことだと思う。
 誰がその目でイエスキリストを見ただろうか?
 僕にとって宗教は小説でしかないのだ。ある男がある場所にいて、奇跡も起きて、世界を救って、彼は消えていく。その言葉を、その思いを、彼を気に入った人々が語り継いでいく。荒っぽい言い方をすれば、オタクである。
 しかし僕が言いたいことは、宗教批判ではない。むしろ宗教は人を救ってきた、愛すべきものだ。そこまでそれをそう信じられるあなたたちを、羨ましくも思う。僕は後進的だ。宗教はすごい。

 「神はいるのだろうか?」。まずそう訪ねる人は少ないだろう。そこに光がある。 多くの人は「あなたは神を信じるだろうか?」と聞くはずだ。
 そう、神がいるのか、いないのかは、本当は重要じゃない。問題は、神を信じるかどうかなのだ。

 例えばここに人が自分の神を手に入れるステップを妄想しよう。
 1.神を殺す
 2.神の素材を集める
 3.神を見つける
 小規模な"再翻訳"によっていくつかの偶然をかみしめる。「人」は「ひと」であり「一」である。「神」は「かみ」であり「紙」である。
 まずあなたは、既存の神を殺さなければいけない。高く積み上がった神を崩して、「ヒト」から「一である人」に堕ちる。
 次に、あらゆる宗教を、小説として知る。固く高かった神はデータとして、低次元のものとして、スライスされた紙になる。自分の重きとする紙を集めて、ぺたぺた貼る。核は自分だ。
 そして、最後の仕上げは、必ず自分の手で行う。最後の最後は、自分の憧れた目玉を入れる。これで神を手に入れる。
 そうして得たあなたの神ならば、人と共有する必要もなければ、布教する必要もない。布教(洗脳)することで、人から自分自身の神を得る機会を奪うことは許されない。
 そうして人それぞれ自分自身の神を得れば、みんなで神を見せ合って、見比べて、欲しいものがあれば、それを紙として写し取って、自分の神に貼ればいい。随時作り替えていっていい。
 だから神は、人の数だけあるべきだと思う。人間の理想の範疇の超えない存在であっても、構わないと思う。
 核である自分に正義を信じられない人は、人の神を借りて良い。だが、人の神を借りている限りあなたは「一」にはなれない。いくら自分の欲しい紙を集めても、最後に自分の手で目玉を吹き込まなければ、「一」にはなれない。

 だから、例えば人を殴ったり蹴ったりする紙を良しとして貼り付けた人間の神は、本来誰にも悪だと言われない。世界でただ一人、その紙を貼られていない神でも、誰にも否定されてはならない。そこで神と彼を持つ人は、人間の作った
法とか社会とかと真っ向ぶつかってしまうだろう。本来、それは仕方のないことだ。だが社会はそれを許してはいけないのも事実だ。人間は一であるが、それをあまりに突き詰めて尊重してはいけない。人間は仲間でありながら、全く別の生き物だから、より生きやすいように種として取捨選択をしなければならない。それがとても残念でならない……。

 たとえば僕は仮の神を持ってみることにした。僕の神はいつでも僕を、ただ、見つめてくれる。どんなことがあっても僕から目をそらさないでいてくれる。だから僕は喜んで偽善者であることを受け入れる。僕は全力で僕のためだけに生きる。

 そういうわけで、例えば既存の神を愛してみるとか、個人の神を持ってみるとか、自分の正義を持つこと、つまり、何かを信じることができれば、どんな形であれそれで人間は生きていける。医学が死を進歩させるので曖昧な表現になることはやむを得ないが、人は、「最後に確かに生きていたその直前」まで、何かを信じる限り生きていける。
 だから、神はいるとかいないとか、お前の思想はここが変だとか、僕の思想はここがいいだとか、くだらない。無価値なのではない、愛すべき・必要なくだらなさ。本当は、そして最後は、あなたが信じるそれだけが、あなたの世界の神なのだ。

 僕は、僕の神にも、既存の神にも、あるいは真の神にも、嘘をつきたくない。だから正直に言う。僕の後ろには神が見えるが、空の向こうにいるかもしれないあなたは、全く見えない。全く感じない。だから信じられない。

 僕の神信仰は、神を信じられないことなんだ。





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Last updated  Jul 7, 2009 12:41:15 AM
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