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カテゴリ:美術館・展覧会・ギャラリー
久しぶりに「美の巨人たち」を見ました。 鴨居玲の『1982年 私』 亡くなってまだ20年くらいですし、 画像を出すことができません。 美の巨人のサイトをご覧ください。 って、今回は、番組のコメントが 恐ろしく短いですね。 どうして? 「その」日、 私は、ある絵描きさんの家を訪ねて、 いました。 「鴨居玲が亡くなったらしいよ…」 「鴨居玲が亡くなる」 ということには、 誰それさんが病気で、あるいは、事故で、 亡くなられた… というのとは、ちょっと、 違うニュアンスが、あったような気がします。 あるいみ 残酷な感想ですが。 そういうことも、あるかもしれないと、 周囲が 漠然と感じていることが、ある日、 現実になってしまった時に感じる、 空虚さとでもいうべき、そんな、 微妙なニュアンスがあったような気がします。 ただ、鴨居玲が、言っていたという 「もう、おしまいにしたい」というのは、 何を「おしまい」にしたかったのか、 番組でも、触れていなかったし、 触れようがない ような気がするし、 多くの芸術家が、言葉では語れないものを、 言葉以外のもので表したように、 ここで、拙い言葉を私が紡ぎだそうにも、 遠くの星に 手が届くはずがないように、 間違っても届かないほうが、いいように、 単純に「謎です」としか、言い様がない気が します。 でも、まあ理屈ぬきに、鴨居玲には惹かれます。 「好き」というには、躊躇いもあるけれど、 「老人」も、「酔っ払い」も、 醜も、愚も、哀も、自嘲も、 みんな、わが自画像として、引き受けた、 この画家が、やっぱり好きだと、思いました。 おそらく、引き受けるという勇気に、 観る者として、 好きになるには躊躇いが生じるのでしょう。 いや、鴨居玲は、「引き受ける」とか何とか、 そんなことを思っていなかったと、思いますが… 関係ないけど、大好きな、レンブラントの自画像。 1669 National Gallery, London 自画像が「絵」になる。 それは、やっぱり、私という存在が、 「私」という範疇を超えたのですね。 自画像を残したいとは思わないけど、(無理…) やはり、「絵」になる生涯だったら、 いいな。 一応。 やっぱり・・・ ―――――――――――――――――― 【本日の同音異義語の驚き(o^^o)】 その点は難しくていい洋画ない。 ―――――――――――――――――― お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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